潮目の霊廟

――読み切り冒険小説――

一 墓が呼ぶ

 海辺の町には、満潮のときにしか読めない地図がある。

 水城澪がその言葉を祖父から聞いたのは、潮ノ岬の家々に赤い杭が打たれた日の夕方だった。

 杭の頭には白い番号があり、二十七番が水城家の台所、二十八番が庭の柿の木、二十九番が崖際の霊廟に立っていた。秋から始まる湾岸再生工事の境界標だ。古い町並みを削り、ホテルとマリーナと、海上を渡るガラス張りの遊歩道を造るのだという。

 町役場のパンフレットには、夕日に染まる未来の湾が描かれていた。そこには水城家も、石段も、百年を越す霊廟もなかった。

「お墓まで壊す気なの」

 澪が赤い杭を蹴ると、縁側の祖父は団扇を止めた。

「あれは墓じゃない」

「じゃあ何」

「先祖を入れる場所ではない。出てこようとするものを、入れておく場所だ」

 いつもの昔話だと思った。

 祖父は近ごろ、昨日と五十年前を同じ声で話す。だがそのときだけ、濁っていた目が海の色に戻った。

「今夜は満潮だ。戸を開けるな。墓で誰かが呼んでも、返事をするな」

「誰が呼ぶの」

「おまえが、いちばん会いたい者だ」

 日が沈むころ、沖の八洲台場に稲妻が落ちた。

 八洲台場は、町から三キロ離れた岩礁に築かれた円形の海上砦だった。明治の終わり、外国艦隊を見張るため造られたが、一発も撃たずに役目を終え、戦後は灯台と海鳥の巣だけが残った。遠くから見ると、海に浮かぶ石の王冠に見える。

 落雷の直後、家の皿が鳴り、庭の地面が低くうなった。

 霊廟の扉に、髪の毛ほどの亀裂が走った。

 夜十一時四十分。満潮。

 澪は机に向かい、町の消えていく道をノートに描いていた。路地、井戸、石垣、船小屋。忘れられる前に、全部を地図にしておきたかった。

 そのとき、窓の外から三度、音がした。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 霊廟の内側からだった。

 耳を塞いだ。

 祖父の言いつけを思い出した。

 四度目の音は、声になった。

「澪」

 十年前、空から消えた父の声だった。

 澪は懐中電灯をつかみ、窓から庭へ飛び降りた。

二 九つ目の印

「一人で墓荒らしなんて、水城家もずいぶん景気がいいな」

 霊廟の前には、すでに江波嵐がいた。油染みのついたつなぎを腰で結び、片手に工具箱を下げている。港の修理工場で働く十七歳で、エンジンの音なら人の機嫌より正確に聞き分けた。

 その隣で、白石菜々がカメラを構えていた。町で唯一の神社の娘で、何かが壊れる瞬間を撮ることに、本人も説明できない執念を持っていた。

 さらに石垣の上には、折原碧斗と小日向弦がいた。碧斗は自作の無線機を背負い、十二歳の弦は虫取り網を持っていた。

「どうして全員いるの」

「グループ通話に『墓から父さんの声がする』って送っただろ」

「送ってない」

 澪が携帯を出すと、画面には確かに自分のアカウントから一行だけ投稿されていた。

 ――満潮。九つ目の印を持ってこい。

「九つ目って何だよ」と碧斗。

「八洲台場の“八”の次じゃない?」と菜々。

「妖怪はだいたい数をひとつ多く言う」と弦。

「その知識、今日だけは信用したくないな」と嵐が言った。

 霊廟は祖父の曾祖父、水城省吾が建てたものだった。黒い鷹橋石の正面に、八枚の波頭が輪を作る家紋が彫られている。中央だけが空白だった。

 嵐が亀裂へ薄い金具を差し込むと、扉は拍子抜けするほど軽く開いた。

 中は冷たく、潮の匂いがした。

 奥に石棺が一つある。水城省吾之柩、と刻まれていた。だが蓋をずらすと、棺は空だった。

 代わりに、底へ真鍮の筒が置かれていた。

 中から出てきたのは、一枚の海図と、革表紙の飛行日誌、古びた航空ゴーグルだった。

 ゴーグルは父・真澄のものだった。澪が幼いころ、父はそれを額に乗せ、水上機の操縦席から手を振っていた。

 十年前の夏、父は高槻朔矢、鷹橋史吾郎という二人の仲間と、八洲台場へ飛んだ。帰ってきたのは高槻と鷹橋だけだった。水上機は沖で墜落し、父の遺体は見つからなかった。

 事故のあと、高槻は港の隅で壊れた機械ばかり直すようになり、鷹橋は町を去った。

 そして今、湾岸再生事業を率いて戻ってきたのが、その鷹橋だった。

 澪は飛行日誌を開いた。

 最後のページに父の字があった。

 〈海の向こうの学者は、日本を一国だけで一文明をなす孤島と呼んだ。半分は正しい。海はわれわれを分けた。だが半分は逆だ。海は、あらゆるものを運んできた。島は閉じて島になるのではない。潮を受けて島になる。省吾の地図が示すのは、その証拠だ。〉

 海図には潮ノ岬と八洲台場が描かれ、周囲に八つの小さな印があった。蓮、獅子、十字、星、炎、鳥、車輪、渦。どの航路も、中央の空白で途切れている。

「折るんだ」

 菜々が言った。

「八つの印を、中央に」

 澪たちは海図の角を一枚ずつ折った。八つの印が中央で重なり、紙を灯りへ透かすと、九つ目の形が現れた。

 墓の字だった。

 同時に、空の石棺の底で金属音がした。

 床がゆっくり割れ、暗い階段が口を開けた。

 下から吹き上げた風に、父の匂いが混じっていた。

 油と、革と、夏の雲の匂い。

「澪」

 今度は全員が聞いた。

 嵐が工具箱を持ち直した。

「行くか」

「止めても行く顔してるくせに」

「おまえもだろ」

 菜々が霊廟の入口を振り返った。遠くの道路で、車のライトが二つ、こちらへ曲がってくる。

「急ごう。たぶん、墓参りじゃない人たちが来る」

 五人は階段を下りた。

 石棺が背後で閉じ、町の音が消えた。

三 潮の下の道

 階段は百二十七段あった。

 弦が数えたので間違いない。ただし百二十八段目に足を置いたとき、それは石ではなく、暗い水だった。

 地下に海があった。

 幅の狭い水路が、岩盤をくり抜いた回廊の中を延びている。壁には古い船板が張られ、天井から陶器の鈴が無数に下がっていた。水位はゆっくり上がっている。

「満潮のときにしか読めない地図って、これか」

 碧斗が無線機のアンテナを伸ばした。雑音の奥で、一定の間隔を置いて低い音が鳴っていた。

「十七秒ごと。潮がどこかの空洞を押してる」

 岸に繋がれた細長い舟が一艘あった。船首には水城家の八つ波紋。五人が乗ると、係留縄がひとりでにほどけた。

 流れが舟を運び始める。

 天井の鈴は、風もないのに鳴った。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 澪には、それが言葉に聞こえた。

 帰れ。帰れ。帰れ。

 水路の先に、三つのアーチが現れた。左は蓮、右は獅子、中央は何も彫られていない。

 舟は分岐へ吸い寄せられる。

「どれだ」

「地図では全部、中央で途切れてた」と菜々。

「じゃあ中央」

「何もないぞ」

「何もないのが九つ目よ」

 嵐が櫂を突き、舟を中央へ向けた。

 入った瞬間、背後で石壁が落ちた。左右のアーチから濁流が噴き出し、舟は暗闇を滑り落ちた。

「中央で正解じゃなかったのか!」

「正解だから殺しにきてるのかも!」

「昔の人、性格悪すぎる!」

 水路が急角度で下る。舟底が岩へぶつかり、鈴が狂ったように鳴った。

 前方に鉄格子が見えた。

 嵐が工具箱を開き、太いスパナを碧斗へ投げた。

「右の鎖!」

「届かない!」

「弦、網!」

 弦の虫取り網が鎖へ絡んだ。碧斗と菜々が引く。錆びた滑車が回り、鉄格子が少しだけ上がる。

 舟はその隙間へ突っ込んだ。

 全員が身を伏せた。石の突起が嵐の背中をかすめ、工具箱だけが後ろへ弾き飛ばされた。

「俺の一式!」

「命より大事?」

「半分くらい!」

 舟は滝を落ち、広い洞窟へ投げ出された。

 水面の向こうに、星空があった。

 だが空ではない。洞窟の壁一面に、青や緑の光が埋まっている。近づくと、それはガラス器、陶片、硬貨、鏡、仏像、十字架、天球儀、牙の彫刻、色褪せた布だった。

 何百年もの漂着物と交易品が、岩棚に整然と収められていた。

 菜々は息を呑んだ。

「宝物庫……」

「海賊の?」と弦。

「海賊なら分類ラベルを付けない」

 澪は棚の木札を読んだ。

 〈南の島より来たる貝貨〉

 〈西域の瑠璃碗〉

 〈北方の骨針〉

 〈明船より得たる暦〉

 〈紅毛人の星見盤〉

 〈漂着せし異国祈祷書〉

 どの品にも、来た方角と、町でどう使われたかが記されている。

 瑠璃碗は神前の水器になり、星見盤は漁の季節を測る道具になり、異国の硬貨は祭りの鈴へ鋳直されていた。

「外から来たものばっかりだ」と碧斗。

「ううん」

 澪は、異国のガラスをはめ込んだ小さな神鏡を手に取った。

「来て、ここで別のものになった」

 洞窟の中央に、石の卓があった。

 そこへ父の水上機と同じ、銀色の海鳥が刻まれている。

 卓の引き出しには、未現像の八ミリフィルムと、録音用の小さな磁気テープが入っていた。十年前の日付がある。

 碧斗が携帯式の再生機へテープを入れた。雑音のあと、若い男たちの笑い声が流れた。

『朔矢、そっちは燃料だ。酒じゃない』

『分かってる。似た匂いだと思っただけだ』

『史吾郎、撮ってないで手を貸せ』

『記録係は手を汚さないんだよ、真澄』

 父と高槻と鷹橋。

 三人とも、澪の記憶より若く、世界にまだ失うものがないように笑っていた。

 録音は途中で途切れ、別の日の声へ飛んだ。

 風と波の轟音。父の息が荒い。

『鏡は鍵じゃない。封印だ。史吾郎が読み違えた。あれは日本の起源なんかじゃない。もっと古い。国も、人も、海もなかったころの――』

 耳を裂くような音が入り、声が歪んだ。

『朔矢、澪に伝えてくれ。島は――』

 テープが止まった。

 洞窟の入口で拍手がした。

「さすが真澄の娘だ。彼よりずっと早く、ここまで来た」

 鷹橋史吾郎が立っていた。

 白い防水コートの背後に、ヘルメットをかぶった作業員が二人いる。鷹橋は五十を少し越えたはずだが、写真で見た十年前の細い目だけは変わっていなかった。

「その海図を渡してくれ、澪さん」

「父を置いて帰った人に?」

 鷹橋の顔から微笑が消えた。

「置いてきたのではない。彼が扉を閉じた」

「何の扉」

「日本が、まだ誰の真似でもなかったころへ通じる扉だ」

 鷹橋は宝物庫を見回した。

「この国は、あらゆる文明の端にありながら、どこにも属さず、一国で一つの文明を作った。奇跡だと思わないか。しかし今、この町も国も、外から来た同じ形の建物、同じ言葉、同じ欲望に塗り潰されようとしている」

「だからホテルを建てるの?」

 菜々が言った。

 鷹橋は苦笑した。

「工事は口実だ。台場の地下へ入るためのね。私は、失われる前の核を見つける」

「ここにあるのは核じゃない」

 澪は異国ガラスの神鏡を握った。

「混ざってきた証拠よ」

「子どもの解釈だ」

 鷹橋が手を上げると、作業員が進み出た。

 その瞬間、碧斗の無線機が大音量で鳴った。

『伏せろ!』

 高槻朔矢の声だった。

 洞窟の天井が爆ぜ、古い送水管から海水が噴き出した。

 照明が消える。

 嵐が澪の腕をつかんだ。

「舟へ!」

 暗闇の中、全員が走った。

 背後で鷹橋の怒声が響く。

 澪は海図とテープを抱え、岩棚の陰に開いた細い水門へ飛び込んだ。

四 空の墓

 水門の先は、人一人がやっと通れる坑道だった。

 五人は膝まで海水に浸かり、闇の中を這うように進んだ。後ろから作業員のライトが近づいてくる。

『左の壁を叩け』

 無線から高槻の声。

 碧斗が拳で壁を叩くと、空洞の音がした。

『そこに非常扉がある。省吾が図面へ残した。蝶番の下を蹴ろ』

 嵐が蹴る。二度、三度。板が外れ、潮風が吹き込んだ。

 外は夜の海だった。

 坑道は断崖の途中へ開いている。下で波が白く砕け、沖には八洲台場の黒い影がある。

 崖に沿って古いレールが延び、小さな鉱車が一台、錆びたまま残っていた。

「乗れ!」と嵐。

「どこへ行くのよ!」

「レールに聞け!」

 五人が飛び乗ると、嵐が留め金を外した。

 鉱車は傾斜を転がり始めた。

 背後の坑道から作業員が出てくる。鷹橋もいた。彼は追わず、静かにこちらを見ていた。

 レールは崖を下り、そのまま海へ突き出していた。

「線路、切れてる!」と弦。

「見れば分かる!」

「ブレーキは?」

「工具箱と一緒に死んだ!」

 海へ落ちる寸前、前方の暗闇でエンジンが吠えた。

 翼を持つ白い船が、波間から飛び出した。

 高槻朔矢の水上機だった。

 鉱車はレールの端から跳び、機体横の浮舟へ激突した。五人は転がりながら主翼へしがみついた。

 水上機は大きく傾いたが、高槻が操縦桿を引き、波を二つ跳ねて持ち直した。

「乗り方が乱暴だ!」

 開いた窓から高槻が怒鳴った。

「迎え方もね!」と菜々が怒鳴り返した。

 機内は狭く、油と古い革の匂いがした。

 父の声と同じ匂いだった。

 高槻は四十五歳。日に焼けた顔に無精髭を生やし、右脚を引きずる。十年前の事故で傷めたのだと聞いていた。

 嵐が計器盤を見て目を輝かせた。

「銀鴎号……まだ飛んだのか」

「まだじゃない。やっとだ。おまえがキャブレターを直したからな」

 銀鴎号は、かつて父たち三人が乗った水上機だった。

 機首の銀色の鳥だけが、宝物庫の刻印と同じように光っている。

「父さんは台場で死んだの」

 澪が尋ねた。

 高槻はしばらく答えなかった。

 窓の外で稲妻が走り、砦の円い壁を白く照らした。

「俺たちは、台場の地下に霊廟があると知った。墓と呼ばれているが、埋葬された人間はいない。水城省吾は百年以上前、海底工事で見つかった“穴”を塞ぐため、砦を設計した」

「穴?」

「空に開いた穴だ」

 弦が首を傾げた。

「地下なのに?」

「見れば分かる。見ないほうがいいがな」

 十年前、三人は宝物庫の記録をたどり、台場へ入った。

 鷹橋は古文書にある「九環鏡」を、日本文明の原型を映す神器だと考えた。鏡を封印台から外した瞬間、地下の空間が開いた。

 海が天井へ落ち、星が足元から昇った。

 父・真澄は二人を逃がし、内側から扉を閉じた。

 高槻は戻ろうとして脚を潰され、鷹橋に引きずられて脱出した。

「俺は十年間、あいつを助けに戻るんだと言いながら、機体を直しては壊した」

 高槻は前を見たまま言った。

「本当は怖かっただけだ」

 無線に鷹橋の声が割り込んだ。

『朔矢。君が飛ぶとは思わなかった』

「史吾郎。鏡を見つけたのか」

『ずっと君が持っていると思っていた。だが違った。真澄は九つ目の印を、自分の娘へ残した』

 澪の手の中で、父のゴーグルが震えた。

 左右のレンズの間に、小さな黒い円盤がはめ込まれている。飾りだと思っていた円盤に、八本の細い溝が走っていた。

『それを台場へ持ってきてくれ。真澄に会わせてやる』

「父さんは死んだ」

『死は、こちら側の都合にすぎない』

 無線が切れた。

 八洲台場の灯台が突然点いた。

 赤い光が一周し、銀鴎号を捉えた。

 砦の中央で、何か巨大なものが呼吸した。

 海面が、島を囲むようにゆっくり窪んだ。

「鷹橋が先に着いてる」と碧斗。

「工事船を使ったんだ」と高槻。

 嵐が操縦席の背へ身を乗り出した。

「どうする」

「帰す、と言いたいところだが、もう潮ノ岬の地下道も開いている。あの穴が広がれば、町ごと海ではない場所へ落ちる」

 高槻はスロットルを押した。

 銀鴎号が波を蹴り、闇へ浮かび上がる。

「今夜だけ、冒険者に戻る」

 彼は笑った。

 その横顔に、録音テープの若者が一瞬だけ重なった。

五 八洲台場

 銀鴎号は砦の外壁を越え、中庭の水面へ着水した。

 かつて大砲が並んだ円形の台場は、半分が海に沈んでいた。砲座の間から松が生え、崩れた兵舎の窓を波が通り抜けている。

 中央には灯台が立ち、その根元に新しい発電機と掘削機が持ち込まれていた。

 高槻は信号拳銃とロープを取り出した。

「鷹橋は中央塔の下だ。九環鏡は九枚で一つ。外輪の八枚は砦の周囲に封じられている。真澄が持ち出した中央片だけが、澪のゴーグルにある」

「それを渡さなければ開かない?」

「逆だ。外れたままだから、閉じ切らない」

 嵐が主翼から降りた。

「じゃあ戻せばいい」

「言うのは簡単だ。八枚の外輪は、潮が満ちるたび違う位置を向く。全部を正しく合わせないと、鏡は門になる」

 菜々がカメラを構えた。

「正しい向きは?」

「それを知っていたのが真澄だ」

 澪は父の飛行日誌を開いた。

 雨粒がページを叩く。最後の文章の下に、薄い鉛筆の線があった。

 〈八方の物語を、一つにするな。八方のまま、同じ中心を見よ。〉

「分けるんだ」

 澪は砦を見回した。

「五人と高槻さんで六人。あと二つ――」

「一つは銀鴎の自動操縦を使う」と嵐。

「そんなもの付いてないぞ」

「今から付ける」

「工具箱は?」

 全員が黙った。

 碧斗が背中の無線機を下ろした。

「配線ならこれをばらせる。二分くれ」

「おまえの“二分”は信用できる?」と菜々。

「今日は三分」

 弦が手を上げた。

「八つ目は鷹橋さんにやらせればいい」

「敵だぞ」

「でも、真澄さんの友だちだった」

 遠くで金属が軋んだ。

 砦の中央塔が、内側から押されるように膨らんでいる。

 高槻は信号拳銃を澪へ渡した。

「合図は赤だ。俺は鷹橋を止める。澪、おまえは中央へ行け」

「どうして私」

「声が、おまえを呼んだからだ」

「それ、いちばん行っちゃいけない理由じゃない?」

「その通りだ。だが真澄は、おまえなら声と父親を聞き分けられると思った」

 高槻は中央塔へ走った。

 残った五人は、砦を八分割した古い案内図の前で役目を決めた。

 北に嵐。北東に菜々。東に碧斗。南東に弦。南に銀鴎号。南西と西は、崩れた連結棒を使って二枚同時に回す。北西は高槻か鷹橋。

 中央は澪。

「無線が死んだら、灯台の光を数えて」

 碧斗が各自へ小さな受信機を渡した。

「三回で回す。二回で止める。一回なら?」

「逃げる」と弦。

「正解」

 五人は散った。

 澪は灯台の地下へ続く螺旋階段を下りた。

 壁が濡れている。海水ではない。触れると指先が冷えるのではなく、遠くなる。自分の手が、何光年も向こうへ伸びたような感覚がした。

 最下層に円形の部屋があった。

 床の中央に、黒い鏡が立っている。

 八枚の金属輪が、花びらのように中央の空白を囲んでいた。金、銀、銅、鉄、錫、鉛、青銅、名も分からない白い金属。それぞれに異なる文字と文様が刻まれている。

 鏡の前に鷹橋がいた。

 作業員二人は壁際で膝を抱え、幼い子どものように泣いている。

「聞こえるだろう」

 鷹橋は振り向かずに言った。

 鏡の空白から、父の声がした。

「澪。遅かったな」

 十年前と同じ声。

 澪が転んだとき、泣く前に笑わせた声。

 初めて飛行機へ乗せてくれた声。

「ここへおいで。もう一度、空を飛ぼう」

 足が一歩、前へ出た。

 鷹橋の頬を涙が伝っていた。

「真澄は向こうにいる。若いままだ。何も失っていない。町も、昔のまま残っている」

「見えるの」

「ああ」

 黒い鏡の中に、潮ノ岬が映った。

 赤い杭はなく、古い家々が連なり、父が水上機の翼に腰掛けている。若い高槻が笑い、若い鷹橋がカメラを回している。

 夏は終わらない。

 誰も町を出ない。

 誰も死なない。

 けれど、澪は気づいた。

 海が動いていない。

 波が一つの形のまま、岸に貼りついている。

 父の髪も、旗も、雲も、風を受けていない。

「これは思い出じゃない」

「何を言う」

「思い出は、こんなにきれいじゃない」

 澪は父のゴーグルを取り出した。

 黒い中央片が、鏡へ引かれて震える。

「お父さんは、飛ぶ前に必ずコーヒーをこぼした。私を笑わせると、自分が先に笑った。右手の小指が曲がってた」

 鏡の中の父を見る。

 両手の指は、完璧に真っすぐだった。

「あなたは、私が会いたい父さんであって、父さんじゃない」

 鏡の中の町が、笑った。

 家々の窓が一斉に口となって開き、黒い海が縦に立ち上がった。

 それは水ではなかった。

 星のない宇宙を、海の形に切り抜いたものだった。

 部屋の壁が消えた。

 澪は、底も岸もない暗黒の潮目に立っていた。

 無数の声が一つの声で囁く。

 ――名を一つにせよ。

 ――物語を一つにせよ。

 ――違いを捨てよ。

 ――そうすれば、永遠に失われぬ。

 鷹橋が両腕を広げた。

「これが核だ。混ざる前の、純粋な――」

「違う!」

 階段から高槻が飛び込み、鷹橋を鏡の前から突き飛ばした。

 その右脚には血が滲んでいた。

「それは空っぽだ、史吾郎。何にでも見える。だからおまえの欲しいものに見えた!」

 鷹橋は床へ倒れ、子どものような顔で高槻を見上げた。

「では、真澄は何のために死んだ」

「俺たちを帰すためだ」

「それだけか」

「それだけで十分だろうが!」

 暗黒の海から、長い腕のような波が伸びた。

 高槻が信号拳銃を撃つ。

 赤い光が天井へ上がった。

六 八つの潮

 赤い光を見て、砦の八方で機械が動き始めた。

 北の砲座で、嵐が錆びたハンドルへ全体重をかける。

「回れ、百年物!」

 北東で、菜々が文様をカメラのファインダー越しに読む。肉眼では崩れた線が、稲妻の瞬間だけ一つの鳥になる。

「東南東じゃない。これは渡り鳥。北東へ帰る印だ」

 東で、碧斗が無線の周波数を合わせる。

 八枚の輪は、それぞれ異なる音を発していた。鐘、弦、笛、太鼓、波、羽音、心臓、そして人の声。

「一つの音に揃えちゃだめだ。和音にするんだ」

 南東で、弦は石板の文字を読めずに困っていた。

 だが文字の横に、虫のような絵がある。

「これ、虫じゃない。星座だ」

 虫取り網の柄をレバーへ差し込み、空の星が描かれた方向へ押した。

 南では銀鴎号のエンジンが無人で始動した。

 嵐が組んだ即席の配線が火花を散らし、機体が係留索を軸にゆっくり旋回する。主翼に繋いだワイヤーが、海中の外輪を回した。

 南西と西の二枚は、古い連結棒で逆向きに動いた。

 菜々が途中で気づき、崩れた回廊を走って歯車の間へ三脚を突っ込んだ。

 金属が悲鳴を上げる。

 三脚は曲がったが、二つの輪は別々の方向を向いた。

 北西だけが動かない。

 中央の部屋で、澪は無線へ叫んだ。

「鷹橋さん、あなたの場所よ!」

 鷹橋は暗黒の海を見つめていた。

 そこには若い日の三人がいる。父・真澄が手を差し出し、高槻が笑っている。

「史吾郎」

 高槻が言った。

「俺たちは、もうあそこにはいない」

「分かっている」

 鷹橋は、ひどく穏やかな声で答えた。

「分かっていたんだ。十年前から」

 彼は立ち上がり、北西へ続く通路へ向かった。

 途中で澪へ、小さなフィルム缶を渡した。

「宝物庫の八ミリは、私が撮った。最後の一本だけ持ち出していた」

「どうして今まで」

「映っている顔を見る勇気がなかった」

 鷹橋は階段を上がった。

 やがて無線から息遣いが聞こえ、北西の歯車が軋み始めた。

『位置についた』

 碧斗の声が全員へ届く。

『音を聞いて。八つ、別々のまま重なる場所がある。そこまで少しずつ』

 八方から、異なる音が流れた。

 低い鐘。

 細い笛。

 木を打つ音。

 波。

 風。

 心臓。

 知らない言葉の歌。

 笑い声。

 澪は目を閉じた。

 ばらばらの音は衝突し、押し合い、やがて互いの隙間へ入り込んだ。

 一つにはならない。

 だが、一つの沈黙を囲むように響いた。

『今!』と碧斗。

 灯台が三度、光った。

 八枚の外輪が止まる。

 中央の空白だけが、澪の手の中の黒い円盤を待っている。

 暗黒の海が父の姿になった。

「澪」

 声は、今度こそ父そのものだった。

 疲れ、笑いを含み、少しだけ鼻にかかっている。

「それを戻したら、もう会えないぞ」

 澪の手が止まった。

 父は近づき、額へ触れた。

 触れられた感覚があった。

 温かかった。

「おまえは地図を描くんだろう。俺のいる場所も描いてくれ」

 涙で鏡が滲んだ。

 そのとき、澪は父の飛行日誌の最後を思い出した。

 島は――。

 途切れた言葉。

「お父さん」

「うん」

「島は、何?」

 父は微笑んだ。

「島は孤独だ」

 澪は泣きながら笑った。

「やっぱり偽物」

 父なら、そんな答えはしない。

 澪は黒い円盤を鏡の中央へ押し込んだ。

 九環鏡が閉じた。

 暗黒の海が激しく反り返り、何億もの声が叫んだ。

 空間が紙のように折れる。

 天井から海が降り、床から星が噴き出す。

 無線に鷹橋の声が入った。

『北西の歯止めが壊れた。誰かが押さえ続けなければ、輪が戻る』

「離れて!」と澪。

『無理だ』

 高槻が階段へ走ろうとしたが、落ちた梁に道を塞がれた。

「史吾郎! 別の方法を探す!」

『朔矢。俺たちは昔、宝を見つけたら三等分しようと約束したな』

「そんな話をしてる場合か!」

『真澄は俺たちに帰り道をくれた。君は十年かけて翼を直した。俺だけ、まだ何も払っていない』

 鷹橋の声の向こうで、金属が砕ける。

『澪さん。文化を墓に閉じ込めれば守れると思っていた。だが墓に入るのは、動かなくなったものだけだ』

「鷹橋さん!」

『フィルムを、海の見える場所で上映してくれ』

 北西の輪が、最後の位置へ入った。

 九環鏡の表面にひびが走る。

 暗黒の潮が一点へ吸い込まれた。

 その中心で、鷹橋の姿が一瞬だけ見えた。

 彼の両脇には、若い父と若い高槻がいた。

 三人は、録音テープと同じように笑っていた。

 次の瞬間、鏡は黒い砂になって崩れた。

 八洲台場全体が沈み始めた。

七 帰るための翼

「全員、銀鴎へ!」

 高槻の声が無線を貫いた。

 澪は螺旋階段を駆け上がった。背後から海水が追ってくる。灯台の壁が裂け、夜空が見えた。

 中庭では銀鴎号が係留索を引きちぎり、円を描いて走っている。

 嵐が主翼へ飛びつき、操縦席へ這い込んだ。

 菜々と碧斗が反対側の浮舟から乗る。

 弦は崩れた砲座に取り残されていた。

「跳べ!」と嵐。

「無理!」

「おまえの網を投げろ!」

 弦が虫取り網を投げた。菜々が柄をつかむ。

 網は人を釣るためのものではなかった。輪が破れ、弦の体が海へ落ちる。

 高槻が機体から身を乗り出し、片腕で弦の襟をつかんだ。

 そのとき、外壁が崩れた。

 巨大な波が中庭へ入る。

「澪!」と菜々。

 澪は灯台の階段から走り、沈みかけた石橋を跳んだ。

 距離が足りない。

 指先が主翼の縁を滑る。

 誰かが手首をつかんだ。

 油と革の匂いがした。

 一瞬、父だと思った。

 だが引き上げたのは嵐だった。

「ぼんやりするな!」

「してない!」

 高槻が操縦席へ戻り、スロットルを全開にした。

 銀鴎号は波の斜面を駆け上がる。正面には、崩れ落ちる砦の門。

 翼端が石壁を擦り、火花が飛んだ。

「重すぎる!」高槻が叫ぶ。

「誰か降りる?」と碧斗。

「じゃんけんする時間ある?」

「あるわけない!」

 嵐が補助レバーを引いた。

「フラップ十五度! 向かい風、次の波で浮く!」

「操縦したことは?」

「ゲームなら三百時間!」

「神様は細部を気にしないことにしよう!」

 波が来た。

 銀鴎号は持ち上げられ、門の残骸へ向かって跳んだ。

 浮舟の片方が石へ当たり、裂ける。

 機体が横転しかける。

 菜々が澪を抱え、碧斗が弦へ覆いかぶさる。

 高槻と嵐が同時に操縦桿を引いた。

 銀鴎号は、砦の崩壊より一秒だけ早く空へ出た。

 下で八洲台場が折れ、海へ沈んだ。

 円形の外壁が渦に呑まれ、最後まで残った灯台の光が一度、二度、三度と回る。

 四度目はなかった。

 夜明け前、銀鴎号は潮ノ岬の浜へ胴体着陸した。

 片方の浮舟を失った機体は砂の上を長く滑り、赤い杭を十本まとめてなぎ倒し、霊廟の手前で止まった。

 五人と高槻は、しばらく誰も動かなかった。

 やがて弦が言った。

「これ、町の工事より壊してない?」

「必要な損害だ」と嵐。

「大人がよく言うやつ」と菜々。

 澪は笑おうとした。

 代わりに涙が出た。

 沖には、もう砦の姿がなかった。

 鷹橋も、鏡も、父の声も、海の下だった。

 高槻が隣へ座った。

「真澄を連れて帰れなかった」

「うん」

「史吾郎も」

「うん」

 澪は父のゴーグルを見る。

 中央の円盤が外れた跡に、小さな穴が開いていた。

 そこから朝日を覗くと、世界が丸く、頼りなく、ひどく美しく見えた。

「でも、帰る場所は残った」

 澪は言った。

 高槻は海を見たまま、長く息を吐いた。

八 海の見える場所

 湾岸再生工事は、三か月後に中止された。

 理由は宝物庫から運び出された品々だった。

 八洲台場が沈む直前、地下水路の圧力で宝物庫の壁が崩れ、数百点の品が霊廟側へ流れ着いた。異なる土地から渡ってきた品々と、それが潮ノ岬で別の道具へ作り替えられた記録は、町が単なる辺境ではなく、何世紀も海の道を結ぶ港だったことを示していた。

 鷹橋の会社は事業から撤退した。

 赤い杭は抜かれたが、町が昔のまま残ったわけではない。

 空き家の何軒かは解体され、港の倉庫は新しくなり、若者の半分はやはり町を出た。

 水城家の霊廟は、小さな資料館の入口になった。扉には新しい銘板が掛けられた。

 〈潮目文庫――来たもの、変わったもの、旅立ったもの〉

 翌年の夏。

 町の広場に白い布が張られた。

 鷹橋が残した最後のフィルムを上映するためだった。

 映像の中で、若い三人が銀鴎号の前に立っている。

 真澄はゴーグルを額に上げ、高槻は工具を持ち、鷹橋はカメラに向かって何か文句を言っていた。

 音はない。

 やがて三人は笑い出し、肩を組む。

 背後の海には、まだ八洲台場が浮かんでいる。

 年を取った高槻は、広場の端で一人、映像を見ていた。

 隣には修理を終えた銀鴎号がある。片方の浮舟だけ材質が違い、陽を受けて明るく光っていた。

 嵐は正式に高槻の弟子になり、秋から飛行訓練を始める。

 碧斗は宝物庫の音を記録して曲にした。

 弦は虫取り網を新品に替えたが、古い柄だけは資料館に寄贈した。

 菜々は上映会の人々を撮っている。壊れる瞬間ではなく、残ったものが次に動き出す瞬間を。

 澪は広場を抜け、霊廟の中へ入った。

 空だった石棺には、父の飛行日誌が展示されている。

 最後のページの途切れた文章の下に、澪は鉛筆で一行を書き足していた。

 〈島は、潮と潮のあいだに浮かぶ、未完成の地図だ。〉

 奥の壁に、九環鏡があった場所から回収された黒い砂が、小瓶に入れて置かれている。

 澪が近づくと、瓶の中で砂がかすかに動いた。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 霊廟のさらに下、閉じた石の向こうから音がした。

「澪」

 父の声ではなかった。

 澪自身の声だった。

 彼女は返事をしなかった。

 外へ出ると、上映が終わり、白い布には本物の海が透けていた。

 沖から一艘の船が入ってくる。見たことのない旗を掲げている。

 港では子どもたちが手を振り、古い鐘が鳴った。

 海は何も返さない。

 ただ、いつも何かを運んでくる。