風切りカナタと空喰い鯨
ハルバ島の正午は、役所の鐘より三秒早くやってくる。
「どけどけどけーっ! 特急便だ! ひかれたくなきゃ、昼飯ごと引っ込め!」
青い屋根の上を、一人の少年が駆け抜けた。
ぼさぼさの黒髪。日に焼けた頬。片方だけ丈の短いズボン。背には革の配達かばんを負い、右手には赤い小箱を掲げている。
「カナタ! また屋根を走ってるな!」
「道が混んでるんだよ!」
「屋根は道じゃねえ!」
「今、道になった!」
怒鳴るパン屋の煙突を飛び越え、洗濯物の列をくぐり、カナタは島の縁へ向かった。
空に浮かぶ島、ハルバ。
島の下には海の代わりに、白い雲が果てなく広がっている。雲海の底がどうなっているか、知る者はいない。島から島へ渡る手段は、風帆船か、小型の滑空翼だけだ。
港では、定期船《コダマ号》が最後の綱を巻き上げていた。
「待って! その船、待ったあああ!」
カナタの声に、甲板の乗客たちが振り向く。
だが船長は無情にも出航の笛を鳴らした。巨大な帆が風をはらみ、《コダマ号》は桟橋から離れていく。
「カナタ兄ちゃん、もういいよ!」
桟橋の端で、十歳ほどの男の子が泣きそうな顔をしていた。病気の母親を見舞いに行く姉へ、形見の首飾りを渡したかったのだ。だが家に忘れ、カナタへ特急配達を頼んだときには、出航寸前だった。
「配達屋に“もういい”は禁句だ」
カナタは走る速度を上げた。
「届け先が動いてようが、空の向こうだろうが――受けた荷物は、絶対に届ける!」
桟橋の先端を蹴る。
足元から、空が消えた。
見物人たちが悲鳴を上げる。
カナタは真っ逆さまに落ちながら、背中のかばんから二本の棒を引いた。棒の間に、折り畳まれていた薄い布翼がばさりと開く。
手製滑空翼《ツバメ零号》。
補修布だらけの片翼が風をつかみ、カナタの体をぐいと持ち上げた。
「うおおおおおっ!」
船尾すれすれまで近づき、カナタは赤い小箱を投げる。
甲板にいた少女が両手で受け止めた。箱を開き、中の首飾りを見る。少女は桟橋の弟へ向かって、何度も大きく手を振った。
「配達、完了!」
次の瞬間、《ツバメ零号》の左の支柱が、ばきりと折れた。
「……あ」
カナタは笑顔のまま、雲海へ落ちた。
「三十七回目だぞ」
港の修理工房で、白髪頭の老人レザトは腕を組んでいた。
「何が?」
「今月、おまえが翼を壊した回数だ」
「まだ月の半分だ。記録更新いけるな」
「威張るな!」
巨大なレンチが飛んできた。カナタは頭を下げてかわす。
工房の隅では、《ツバメ零号》が無残な姿で吊られていた。港の救助網に引っかかったため、カナタ自身はかすり傷で済んでいる。
レザトはカナタの祖父であり、ハルバ島一の翼職人だ。
腕はいい。口は悪い。孫へのレンチ投げだけは百発百中――のはずだが、今日も外した。
「おまえの親父も無茶ばかりしたが、翼はもう少し大事に使った」
「親父は帰ってこなかったけどな」
工房の空気が、少しだけ重くなる。
カナタの父ソラトは、八年前に姿を消した。
世界を覆う巨大な嵐《天蓋嵐》へ入り、そのまま戻らなかった。腕利きの航路士だったが、禁じられた空域へ向かったため、世間では“名誉欲に負けた無謀者”と呼ばれている。
カナタは胸元の古い方位針を握った。
父が残した唯一の品だ。
ただし、その針は北を指さない。
東へ回り、西へ震え、ときには真下を指す。壊れているのだ、と誰もが言った。
「親父が何を見つけたのか、俺が確かめる」
カナタはいつも同じことを言った。
「それで航路士になって、誰も知らない空の地図を描く。島の外れにある“立入禁止”の札、全部ひっくり返してやる」
「まずは飛行免許を取れ」
「試験官が俺の才能を理解してない」
「十七回落ちた男が言う台詞じゃねえ」
そのとき。
工房の屋根が、爆発した。
瓦と煙と一緒に、何かが落ちてくる。
「うわっ!」
「わしの屋根えええ!」
作業台の上へ突っ込んだのは、カナタと同じくらいの年頃の少女だった。
銀色に近い淡い髪。紺色の外套。首には、星をかたどった青い石を下げている。腕には、古びた木箱を抱えていた。
少女は煙の中から顔を上げると、カナタをまっすぐ見た。
「あなたが、“風切りカナタ”?」
「屋根代の請求なら、そこのじいさんに」
「おまえにじゃ!」
少女は木箱を差し出した。
「配達を頼みたい」
「届け先は?」
「終端灯台」
「……は?」
レザトの顔色が変わった。
終端灯台。
ハルバ島から西へ三百里。《天蓋嵐》の内側にあると伝えられる、とうに捨てられた灯台だ。今は地図からも消されている。
「日没までに、この箱を灯台の最上階へ届けて」
少女の声は落ち着いていた。
だが箱を抱く指は、小さく震えている。
「報酬は?」
カナタが聞くと、少女は外套の内側から、黄ばんだ紙片を取り出した。
そこには、風の流れを示す細かな線と、見覚えのある筆跡があった。
――風は、道を覚えている。
父ソラトの字だった。
「これをどこで手に入れた」
「終端灯台へ来れば、あなたのお父さんが八年前に何をしたのか分かる」
カナタは木箱を受け取った。
「名前」
「フィオ」
「依頼人フィオ。届け先、終端灯台。期限、今日の日没」
工房の外で、重い靴音が響いた。
窓から見ると、灰色の制服を着た男たちが通りを封鎖している。胸には、空路を管理する《大風帆連盟》の紋章。
その中央を、背の高い男が歩いてきた。
赤銅色の長髪を後ろへなでつけ、片目に黒い単眼鏡をかけている。腰には細身の剣。風帆連盟の英雄、“嵐狩り”ガルド船長だった。
「その少女は、連盟の重要物を盗んだ」
扉越しに、ガルドの声が響く。
「箱を渡せ。悪いようにはしない」
フィオがカナタの袖をつかんだ。
「渡したら、空喰い鯨が殺される」
「空喰い鯨?」
「話は飛びながら!」
工房の正面扉が蹴破られた。
同時に、カナタは壁のレバーを引いた。
床板が開き、修理途中の《ツバメ零号》が跳ね上がる。新しい翼はまだ片側しか張られていない。
「カナタ! そいつは飛べんぞ!」
「片翼あれば十分!」
「十分なわけあるか!」
カナタはフィオを抱え、翼の操縦帯へ体を滑り込ませた。
「じいちゃん、屋根の修理よろしく!」
「待て、この大馬鹿孫――!」
工房の裏壁を突き破り、《ツバメ零号》は空へ飛び出した。
「落ちる!」
「飛んでる!」
「落ちながら進んでるだけ!」
「それを滑空って言うんだ!」
片翼の《ツバメ零号》は、きりもみしながら港の帆柱をすり抜けた。
背後から、連盟兵の小型艇が三隻追ってくる。
艇首の発射器から、網弾が撃ち出された。
「右!」
「分かってる!」
カナタが体重をかける。
翼は右へ傾くどころか、左へひっくり返った。
「逆!」
「分かってなかった!」
網が頭上を通り過ぎる。
カナタは上下逆さまのまま笑った。
「でも、当たらなかった」
「あなた、いつもこうなの?」
「今日は調子がいい方だ」
フィオが青ざめた。
ハルバ島の外周を回り込み、二人は古い給水塔の間を抜ける。
追手の艇は大きく、狭い隙間へ入れない。一隻が塔へぶつかり、水を盛大にかぶった。
「一隻!」
だが残る二隻のさらに上から、巨大な影が落ちてきた。
黒い船体。
三枚の鋼帆。
船首には、獣の牙のような衝角。
ガルドの旗艦《グラディオ号》だった。
『カナタ・アオイ』
拡声管から、ガルドの声が降ってくる。
『君の父親とは旧知の仲だ。彼のような最期を迎えたくなければ、止まりたまえ』
「親父の最期を知ってるのか!」
『知りたければ、箱を渡せ』
カナタは一瞬、操縦帯を握る手を止めた。
フィオが言う。
「ガルドは、あなたが迷うと知ってる」
「迷ってない」
「嘘」
「配達中に昔話を始めるほど暇じゃないだけだ」
カナタは胸の方位針を開いた。
針は激しく回ったあと、西を指す。
壊れた針が、初めて迷わず一方向を示した。
「こいつまで、届けろって言ってる」
カナタは翼を西へ向けた。
ハルバ島の外には、風の壁がある。
何層もの気流がぶつかり、目に見えない崖のようになっている。普通の船は決められた航路門を通るしかない。
だがカナタには、風が見えた。
正確には、音で分かる。
帆布の震え。支柱のうなり。頬をなでる冷たさ。無数の音が重なり、空に一本だけ、細い抜け道を作っている。
「つかまってろ」
「何をする気?」
「道がないなら――作る!」
カナタは風の壁へ突っ込んだ。
翼が悲鳴を上げる。
体が上下左右から殴られる。フィオが目を閉じた。
その瞬間、カナタは操縦帯を緩めた。
抗うのをやめた片翼が、乱気流に巻かれてくるりと回る。
一回転。
二回転。
三回転。
風の渦の中心へ入り、最後の一回転で機首が西を向いた。
次の瞬間、《ツバメ零号》は矢のように風の壁から射出された。
背後で、追ってきた小型艇二隻が乱気流に弾かれる。
「三隻!」
カナタは拳を上げた。
フィオはしばらく口を開けたままだった。
「……あなた、本当に免許を持ってないの?」
「試験は安全運転しか採点しないからな」
「正しい採点だと思う」
彼方に、黒い雲の柱が見えた。
天から雲海までをつなぐ、巨大な嵐。《天蓋嵐》だ。
空の半分を覆う稲妻を見て、フィオの表情が引き締まる。
「日没まで、あと四時間」
「その前に説明しろ。空喰い鯨って何だ」
フィオは木箱へ目を落とした。
「この世界の島が、なぜ浮いているか知ってる?」
「島の底に“浮星石”があるからだろ」
「浮星石は、何百年もすれば力を失う。新しい星砂を運んでくるのが、空喰い鯨」
フィオは西の嵐を指した。
「五十年に一度、あの嵐の中を通って、世界を一周する。古くなった岩や、落ちかけた島の欠片を食べて、代わりに新しい星砂を空へまくの」
「じゃあ、怪物じゃないのか」
「人が勝手に怪物と呼んだだけ。巨大な口で島をのみ込む姿しか見なかったから」
「ガルドは、そいつを殺して何をする」
「心臓にある《星炉》を取る。星炉があれば、浮星石を人工的に作れる」
「便利じゃないか」
「一つの星炉で救える島は、せいぜい十。鯨が星砂を運ばなくなれば、百を超える島が、次の百年で落ちる」
カナタは口笛を吹いた。
「ずいぶん割に合わない計算だ」
「ガルドは、救う島を自分で選べる。星炉を持つ者が、空路も、食料も、国も支配できる」
木箱の中から、かすかな音がした。
とくん、とくん。
小さな心臓の鼓動のようだった。
「中身は?」
「《導歌晶》。鯨を終端灯台へ導くための結晶。灯台で目覚めさせないと、鯨は嵐の中で方向を失う」
「方向を失ったら?」
「最初にぶつかるのは、ハルバ島」
カナタは振り返った。
遠ざかる故郷の島が、午後の光に浮かんでいる。
「そういう大事なことは、最初に言え!」
「荷物の中身は聞かない主義なんでしょう?」
「依頼人に言い返された!」
そのとき、頭上で砲声が鳴った。
《グラディオ号》が、風の壁を強引に突き破ってきた。
鋼帆の一部を失いながらも、速度は落ちていない。
船首から、鎖のついた鉄杭が放たれる。
「伏せろ!」
鉄杭は《ツバメ零号》の尾を貫いた。
鎖が巻き取られ、二人は旗艦へ引き寄せられる。
カナタは腰の小刀を抜き、鎖を切ろうとした。
だが太すぎる。
「フィオ、操縦帯を持て!」
「私、飛べない!」
「俺も免許はない!」
「同じにしないで!」
カナタは翼の支柱を一本外した。
片翼しかない機体から、さらに骨組みが抜ける。
「何してるの!?」
「荷物を軽くする!」
「壊してるだけ!」
支柱で鎖をたたき、鉄杭の留め金を外す。
自由になった瞬間、《ツバメ零号》は大きく傾いた。
目の前に、逆さ雨の雲が迫る。
下から上へ向かって雨が降る、奇妙な空域だ。
「突っ込むぞ!」
「その台詞、今日二回目!」
二人は逆さ雨にのみ込まれた。
水が翼を下から打ち上げる。
視界が白く消える。
雷鳴の中で、フィオが叫んだ。
「前に島!」
「見えない!」
「私には見える!」
フィオの首飾りが青く光っていた。
彼女はカナタの手へ自分の手を重ね、操縦帯を左へ引く。
白い雨の幕が切れた。
目の前に、傘のような岩山が浮かんでいる。
二人は岩肌すれすれで機首を上げたが、《ツバメ零号》の残った翼が木に引っかかった。
幹が折れる。
枝が折れる。
翼も折れる。
最後に二人は、巨大な青いキノコの上へ落ちた。
ぽよん、と弾み、草地へ転がる。
「着陸、成功……」
カナタが親指を立てる。
「今ので成功なら、失敗はどんな状態?」
フィオは目を回していた。
そこは《傘岩島》と呼ばれる無人島だった。
島の上半分は岩の傘に覆われ、逆さ雨から流れ込む水が、天井の川となって光っている。
《ツバメ零号》は、今度こそ完全に壊れていた。
「直せる?」
「直す。配達の途中だからな」
カナタは折れた木を削り、翼の骨にする。
フィオは黙って布を縫い始めた。針仕事は驚くほど速かった。
「灯台守の服は、全部自分で直すから」
「おまえ、灯台守なのか」
「最後の見習い」
フィオはしばらく迷い、それから話し始めた。
終端灯台は、かつて空喰い鯨を導くための施設だった。
だが五十年前、連盟は灯台を閉鎖し、《導歌晶》を持ち去った。鯨の存在を秘密にし、次の回遊で星炉を奪う計画を立てたのだ。
「私の祖父は、灯台を守っていた。八年前、導歌晶を取り戻すために連盟の保管庫へ入った」
「親父も一緒だったのか」
フィオはうなずいた。
「ソラトさんは、連盟の航路士だった。ガルドの相棒だった。でも計画を知って、祖父に協力した」
「それで、失踪した?」
「二人は導歌晶を奪い返した。けれど逃げる途中で、連盟の船に追いつかれた。祖父は亡くなった。ソラトさんは晶石を持って、天蓋嵐へ入った」
「その箱は、どうやっておまえの手に」
「一か月前、嵐の外れに古い救命艇が流れ着いた。中に箱と、地図と、記録筒があった。ソラトさんのものだった」
「親父は?」
フィオは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
カナタは削っていた木を強く握った。
ささくれが手のひらへ刺さる。
「親父は、灯台まで行けなかったんだな」
「でも箱を守った。八年間、嵐の中を漂っても壊れないように」
「届けられなきゃ、同じだ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
カナタは父を信じていた。
誰に無謀者と笑われても、どこかで生きていると思っていた。いつか空の果てから帰ってきて、「待たせたな」と笑うのだと。
フィオが言った。
「怒っていいと思う」
「おまえに言われなくても怒ってる」
「私にも。お父さんにも」
「……おまえには怒ってない」
「私は、お父さんの地図を餌にして、あなたを連れ出した」
「そうだな。そこは腹立つ」
「ごめんなさい」
フィオは頭を下げた。
「私一人では、終端灯台まで飛べなかった。誰にも頼れなかった。連盟が怖くて、全部、敵に見えた」
「俺のことは敵に見えなかったのか」
「最初は、使えそうな馬鹿に見えた」
「謝る流れで殴るな」
「今は……頼れる馬鹿」
「一段しか上がってない!」
フィオが、初めて小さく笑った。
カナタはため息をつき、手のひらのささくれを抜いた。
「配達屋は、荷物の中身を聞かない。依頼人の過去も聞かない」
「さっき散々聞いてた」
「今日は特別だ。代わりに、届け終わるまで勝手にいなくなるな」
フィオは目を瞬いた。
「それは、命令?」
「契約の追加条件」
「……分かった」
二人は握手をした。
その瞬間、カナタの胸元の方位針がかちりと鳴った。
針は木箱へ向いている。
「これ、北を指す道具じゃないのかも」
フィオが方位針をのぞき込む。
「古い灯台守は、“帰星針”を使ったと聞いたことがある。星砂の流れを感じて、帰るべき場所を示す針」
「帰るべき場所、ね」
カナタは蓋の裏を見た。
今まで気づかなかった小さな文字が刻まれている。
――道に迷ったら、届けたいものを思え。
父の字だった。
カナタは方位針を閉じる。
「親父の言い訳を聞くのは、灯台に着いてからだ」
修理した翼を立てる。
左右の形は不格好で、布の色も違う。だが、風を受けるには十分だった。
「行くぞ、フィオ」
「日没まで、あと二時間」
「余裕だ」
「その根拠は?」
「配達屋の勘」
「一番信用できない根拠だった」
終端灯台は、嵐の中で眠っていた。
雲を突き抜けた細長い岩礁の上に、白い塔が立っている。
半分は崩れ、灯火は消え、周囲を青い稲妻が這っていた。
《ツバメ零号》は最後の上昇気流をつかみ、塔の中腹へ滑り込んだ。
着地と同時に、右の翼が外れて飛んでいく。
「今度こそ完璧な着陸だ」
「機体の半分がなくなったけど」
「半分残った」
塔の内部は、巨大な楽器のようだった。
壁一面に金属管が走り、歯車と風車が何層にも組み合わされている。中央には、螺旋階段が最上階まで続いていた。
二人は駆け上がる。
途中の壁に、古い航路士たちの名前が刻まれていた。
その一番下に、新しい傷で彫られた文字がある。
――ソラト・アオイ。荷を託す。
カナタは足を止めた。
文字の下に、小さな筒が挟まっている。
フィオが拾ってきたものと同じ、記録筒だ。
蓋を開けると、かすれた声が流れた。
『カナタ。これを聞いてるなら、おまえはたぶん、俺を追ってきたんだろうな』
八年ぶりに聞く父の声だった。
『先に謝る。帰れなくて、すまん』
カナタは唇をかんだ。
『おまえに、でっかい空を見せるって約束した。なのに俺は、世界を救うだの何だの言って、肝心の家族を置いてきた。英雄なんかじゃない。ただの、約束破りだ』
記録の向こうで、風がうなる。
『それでも、この荷物だけは届けなきゃならない。鯨が死ねば、おまえの島も、いつか落ちる。知らない誰かの島も落ちる。顔も知らない子どもが、空を怖がるようになる』
父の声が少し笑った。
『だから俺は、最後まで配達屋でいる。俺が届かなかったら、誰かが続きを運んでくれると信じる。道は、一人で終わらせなきゃならないものじゃない』
短い雑音。
『カナタ。地図は、世界の形を描くものじゃない。誰かが“ここへ行く”と決めた跡を残すものだ』
そして最後に。
『風は、道を覚えている』
記録が止まった。
カナタはしばらく動かなかった。
泣くつもりはなかった。だが目に入った嵐の雨が、頬を伝った。
「勝手なこと言いやがって」
拳で涙をぬぐう。
「続きは自分で運べ、ってか」
フィオは何も言わず、隣に立っていた。
そのとき、塔全体が揺れた。
外から鋼鉄の衝角が壁を突き破る。
《グラディオ号》が灯台へ横付けされ、灰色の制服を着た兵士たちがなだれ込んできた。
「ここまでだ」
螺旋階段の上に、ガルドが立っていた。
剣の切っ先が、夕日のように赤く光る。
「箱を渡せ、フィオ。無駄な犠牲を増やすな」
「鯨を殺す方が、ずっと多くの犠牲を生む」
「百年後の百の島より、明日落ちる十の島を救う」
ガルドは静かに言った。
「私は幼いころ、故郷の島が落ちるのを見た。浮星石が尽きたが、誰も助けられなかった。鯨が星砂を運ぶのを、ただ待てと言われた。来るかどうかも分からない奇跡を」
「だから星炉を奪うの?」
「奇跡を人の手に取り戻す。救う島を選ぶ力を得る」
カナタがにらむ。
「選ばれなかった島は?」
「すべてを救える者などいない」
「だからって、最初から切り捨てる数を数えてる奴を、俺は英雄とは呼ばない」
ガルドの単眼鏡が、かすかに光った。
「その目だ。ソラトも同じ目をしていた」
「親父を殺したのか」
「私は止めた。嵐へ入れば死ぬと分かっていた。彼は笑って、“息子に胸を張れなくなる方が怖い”と言った」
ガルドは剣を構えた。
「愚かな男だった」
「知ってるよ」
カナタは折れた翼の支柱を構える。
「俺の親父だからな!」
ガルドが踏み込む。
剣と支柱がぶつかり、火花が散る。
一撃で支柱に深い傷が入った。
カナタは階段の手すりを蹴り、上へ跳ぶ。
頭上から支柱を振り下ろすが、ガルドは片手で受け止めた。
「速い。だが軽い」
腹へ柄が入る。
息が止まり、カナタの体が壁へたたきつけられた。
「カナタ!」
フィオが木箱を抱えて走る。
だが兵士たちが行く手をふさいだ。
ガルドはカナタの胸ぐらをつかみ、崩れた窓辺まで引きずる。
「君は父親より若い。ここで引き返せば、生きられる」
「配達の……途中だ」
「命より大事な荷物か」
「逆だ」
カナタは血のにじむ口で笑った。
「誰かの命が入ってるから、荷物が大事なんだよ」
ガルドの眉が動いた。
カナタは胸元の帰星針を外し、ガルドの単眼鏡へ投げつけた。
反射的に顔をそらした隙に、体をひねる。
だが一歩足りなかった。
ガルドの蹴りが胸へ入り、カナタは窓の外へ放り出された。
「カナタ――!」
フィオの声が遠ざかる。
空。
嵐。
雲海。
落ちながら、カナタは手を伸ばした。
指先に何かが触れる。
灯台の外壁に垂れていた、古い旗の綱だった。
綱をつかんだ瞬間、肩が抜けそうな衝撃が走る。
カナタの体は宙づりになった。
上では、兵士たちがフィオから箱を奪っている。
ガルドは中の導歌晶を取り出した。青い結晶は、夕暮れの中で鼓動するように明滅している。
「星喰い砲へ運べ」
ガルドたちは《グラディオ号》へ戻っていった。
船が灯台から離れる。
その船首では、巨大な砲身が展開していた。導歌晶を照準器に使い、空喰い鯨の星炉を撃ち抜く兵器だ。
日没まで、あとわずか。
低い鳴き声が、世界を震わせた。
雲海が盛り上がる。
山より巨大な影が、嵐の奥から姿を現す。
空喰い鯨。
黒い背には、夜空のような星模様が広がっていた。翼のような胸びれが雲を押し分け、開いた口の中には青白い光が渦巻いている。
美しく、恐ろしい姿だった。
だが鯨は苦しんでいた。
導きの歌を失い、嵐の中を迷い、進路を定められずにいる。その巨体が向かう先には、遠くハルバ島の影があった。
《グラディオ号》の砲口が光る。
カナタは綱を登ろうとした。
右肩に激痛が走る。力が入らない。
「こんなところで……」
風が吹いた。
ぼろぼろになった旗が、カナタの顔へ張りつく。
そこには、終端灯台の紋章――一枚の翼と、風の渦が描かれていた。
片翼。
カナタは笑った。
「そうだよな。片方あれば、十分だ」
綱を足に巻きつけ、左手だけで体を引き上げる。
窓へ戻ると、壊れた《ツバメ零号》の残骸を拾った。
翼は一枚。
支柱は二本。
帆布は裂けている。
それでも、灯台には風があった。
五十年、鯨を待ち続けた塔の中を、無数の風管が走っている。
カナタは父の地図を広げた。
端に書かれた小さな線が、灯台内部の風管と一致する。
――灯火を失ったときは、塔そのものを鳴らせ。
「親父。説明が足りねえんだよ」
カナタは中央の歯車へ飛び乗り、固まった制御棒を蹴った。
一度。
二度。
三度。
さびた棒が折れる。
嵐の風が一気に塔へ流れ込んだ。
金属管が震え、低い音を鳴らす。
ひとつ。
ふたつ。
塔全体が巨大な笛となり、空へ歌を放った。
鯨がこちらを向く。
同時に、塔の頂上から強烈な上昇気流が噴き出した。
カナタは片翼を背負い、風の中心へ飛び込んだ。
「特急便、再出発だ!」
《グラディオ号》の甲板では、星喰い砲の装填が進んでいた。
フィオは両手を縛られ、帆柱の根元へ座らされている。
「船長、照準が安定しません!」
「導歌晶の出力を上げろ」
「これ以上は結晶が――」
「構わん。星炉を撃ち抜ければいい」
ガルドの声は冷静だった。
だが単眼鏡の奥の目は、空喰い鯨から離れない。
鯨の進路上には、ハルバ島がある。
このままでも多くが死ぬ。撃てば鯨が死に、将来さらに多くが死ぬ。
ガルドは歯を食いしばった。
「私は、選ぶ」
星喰い砲に光が集まる。
そのとき、見張りが叫んだ。
「船尾上空、何か来ます!」
雲を突き破り、一枚の翼が飛び出した。
カナタだった。
片翼の端に灯台の旗を結び、上昇気流を乗り継いでくる。落ちているのか、飛んでいるのか分からない軌道で、《グラディオ号》へ急接近した。
「お届け物でーす!」
カナタは甲板へ突っ込んだ。
兵士を三人巻き込み、樽を五つ倒し、帆の縄を一本切り、最後に逆さまの状態で帆柱へ引っかかった。
「……着陸、成功」
「それ、もう誰も信じない!」
フィオが叫ぶ。
カナタは帆柱から落ちる勢いで、彼女の縄を小刀で切った。
「箱は?」
「砲の中!」
「取り返すぞ」
「肩は?」
「左がある」
二人は甲板を走った。
兵士たちが剣を抜く。
カナタは帆柱の綱を切った。巨大な帆が落ち、兵士たちを包み込む。フィオは滑車へ飛びつき、帆を巻き上げて進路を開く。
「右から三人!」
「任せた!」
「私、戦えない!」
「俺も習ったことない!」
「どうして毎回、それで突っ込むの!」
カナタは床の柄杓を蹴り上げた。
水が兵士の顔へかかる。ひるんだ隙に足元をすくい、三人まとめて樽の山へ転がした。
「勝てばいい!」
「理屈が乱暴!」
砲台へ続く階段の前に、ガルドが立つ。
「また来たか」
「配達屋は、受取印をもらうまで帰らない」
「鯨に字が書けるとは思えんな」
「そこは相談する!」
ガルドの剣が走る。
カナタは身を反らす。前髪が数本切れた。
二撃目。
三撃目。
カナタは避け続けるが、肩の痛みで動きが鈍る。
ガルドの剣先が頬を裂いた。
「意地だけでは、何も救えない」
「計算だけでも救えない!」
カナタは甲板を蹴り、わざと船縁へ追い詰められる。
背後は雲海。逃げ場はない。
ガルドが剣を突き出した。
その瞬間、カナタは身を沈めた。
剣が背後の帆綱を切る。
解放された鋼帆が大きく回り、ガルドを横から打った。
ガルドの体が甲板を滑る。
剣が手を離れた。
「意地じゃない」
カナタは息を切らしながら立つ。
「俺は、フィオを信じてる。親父を信じてる。あの鯨が五十年かけて、知らない誰かの島まで救ってきたって話を信じる」
「信じるだけで、空は飛べん」
「飛べるさ」
カナタは片翼を指した。
「足りない分を、風が持ってる!」
フィオが砲台の制御盤へたどり着いた。
青く光る導歌晶を外そうとする。
だが砲身はすでに限界まで光をためていた。
「カナタ! 止められない!」
星喰い砲が発射された。
白い閃光が、空喰い鯨へ走る。
「間に合えええ!」
カナタは帰星針を開いた。
針が激しく回り、導歌晶ではなく、鯨の額を指す。
同時に、終端灯台の歌が嵐を震わせた。
鯨が身をよじる。
光線は星炉のある胸を外れ、左の胸びれを貫いた。
巨体が傾く。
空全体が沈んだような衝撃が走る。
鯨が悲鳴を上げた。
《グラディオ号》も暴風に巻かれ、横倒しになる。
兵士たちが甲板を滑り、次々に船外へ投げ出されかける。
「帆を閉じろ! 乗員をつなげ!」
ガルドが叫ぶ。
自ら綱を投げ、落ちかけた兵士を引き上げる。
だが船体の下から、崩れた岩礁が迫っていた。
避けられない。
空喰い鯨が、傷ついた胸びれを伸ばした。
巨大なひれが《グラディオ号》を持ち上げ、岩礁との衝突を防ぐ。
自分を撃った船を、鯨が救った。
甲板の誰もが言葉を失う。
ガルドは、単眼鏡を外した。
「……なぜだ」
フィオが導歌晶を取り外す。
光を失った星喰い砲から、煙が上がる。
「この子は、救う島を選ばない」
フィオは結晶を胸へ抱いた。
「だから、五十年も飛び続けられる」
空喰い鯨の体が、再び傾いた。
傷が深い。嵐の風に流され、ハルバ島へ向かって落ち始める。
「導歌晶を、鯨の《星窓》へ戻さないと」
「星窓ってどこだ」
「額。日没の瞬間だけ開く」
西の空で、太陽が雲海へ触れようとしていた。
鯨の額まで、距離は二百丈。
その間には、雷と暴風が渦巻いている。
《ツバメ零号》の片翼は、甲板の端で折れていた。
「無理だ」
兵士の一人がつぶやく。
カナタは折れた翼を拾った。
「その言葉、配達屋には禁句だ」
フィオが導歌晶を差し出す。
「私も行く」
「危ないぞ」
「依頼人は、勝手にいなくならない。追加条件でしょう?」
カナタは笑った。
「そうだった」
二人は片翼の操縦帯へ体を入れた。
ガルドが立ちふさがる。
カナタは身構えた。
だがガルドは、腰の剣で旗艦の予備帆を切り落とした。
厚い布が片翼へかぶさる。
「それで裂け目をふさげ」
「助けるのか」
「勘違いするな。私はまだ、奇跡を信じたわけではない」
ガルドは折れた帆柱へ綱を結び、巨大な弓のようにしならせた。
「だが、目の前で救われた借りを返さないほど、落ちてはいない」
片翼を綱へ引っかける。
ガルドと兵士たちが、帆柱を限界まで引いた。
「進路、鯨の額!」
「風速、計測不能!」
「射出まで三!」
フィオがカナタの腰へ腕を回す。
「怖い?」
「すごく」
「俺もだ」
「あなたでも?」
「怖くない奴は、たぶん想像力がない」
カナタは前を見る。
「でも、怖いまま行ける」
「二!」
太陽が沈む。
空喰い鯨の額に、星形の裂け目が開いた。
内部から、夜明けのような青い光が漏れる。
「一!」
ガルドが剣を振り下ろし、綱を切った。
「行け、風切り!」
片翼は矢となって飛び出した。
風が、牙をむいた。
カナタとフィオは雷雲を突き抜ける。
翼の布が裂ける。支柱がきしむ。
正面から稲妻が来る。
「左!」
フィオの首飾りが光る。
カナタは操縦帯を引き、紙一重で避けた。
「次、上!」
上昇気流へ乗る。
鯨の巨体が近づく。黒い皮膚の星模様ひとつひとつが、家ほどの大きさだった。
だが鯨は痛みに身をよじり、額の星窓が遠ざかる。
「届かない!」
片翼の速度が落ちる。
下は雲海。後ろには戻れない。
カナタは父の帰星針を開いた。
針は星窓を指している。
だが、その周囲を小刻みに揺れていた。
風は、道を覚えている。
父は八年前、同じ空を飛んだ。
灯台へ届かなかったとしても、風の中に道を残した。
カナタは目を閉じた。
翼の震えを聞く。
嵐のうなりを聞く。
鯨の鳴き声を聞く。
無数の音の中に、一本だけ、懐かしい口笛のような流れがあった。
「見つけた」
「何を?」
「親父の道!」
カナタは機首を下げた。
星窓とは逆方向、鯨の胸元へ落ちる。
「カナタ!?」
「このままじゃ届かない。だから一回、落ちる!」
「説明になってない!」
鯨の傷ついた胸びれが迫る。
カナタはその縁すれすれを通り抜けた。
巨大なひれが生み出す上昇気流が、片翼を下からたたく。
落下の勢いが、上向きに変わる。
二人は鯨の体表に沿って、一気に駆け上がった。
首。
頬。
額。
星窓が目の前にある。
しかし最後の稲妻が、翼の中央を貫いた。
《ツバメ零号》が砕ける。
カナタとフィオの体が、空へ投げ出された。
「フィオ!」
カナタは左手でフィオをつかんだ。
右肩は動かない。
星窓まで、あと十歩分。
遠い。
フィオが導歌晶を見た。
それから、カナタを見る。
「届けて」
彼女はカナタの胸を蹴った。
反動で、フィオの体は鯨の額から離れていく。
代わりにカナタが星窓へ近づく。
「馬鹿!」
「頼れる馬鹿の相棒だから!」
カナタは導歌晶を抱え、星窓へ手を伸ばした。
指先が届かない。
あと少し。
父の声がよみがえる。
――道は、一人で終わらせなきゃならないものじゃない。
カナタは帰星針を投げた。
針の鎖が星窓の縁へ引っかかる。
カナタは鎖をたぐり、最後の距離を飛んだ。
「終端灯台より、特急便!」
導歌晶を星窓へ押し込む。
「確かに届けたああああ!」
青い光が、空喰い鯨の全身を走った。
星模様が一斉に輝く。
傷ついた胸びれから、きらきらと星砂があふれ出す。
鯨が大きく鳴いた。
その声は嵐を割り、雲を開き、遠い島々の窓を震わせた。
落ちていくフィオの下に、柔らかな風が生まれる。
鯨の吐息だった。
カナタも星窓から投げ出され、フィオの隣へ落ちる。
二人の体を、鯨の息が受け止めた。
空喰い鯨はゆっくりと向きを変える。
ハルバ島を避け、世界を巡る古い航路へ乗る。
その背から、星砂が雪のように降った。
遠く、ハルバ島の底が青く輝く。
弱り始めていた浮星石が、新しい光を取り戻していく。
フィオが笑った。
涙を流しながら、声を上げて笑った。
カナタも笑った。
空の真ん中で、二人は手をたたき合った。
「配達、完了!」
直後、鯨の吐息が消えた。
二人はそろって雲海へ落ち始める。
「帰り道は!?」
「考えてなかった!」
「最後までそれなの!?」
頭上から、一本の綱が落ちてきた。
《グラディオ号》だった。
傾いた船体を立て直し、二人を追ってきたのだ。
綱の先で、ガルドが叫ぶ。
「つかまれ、大馬鹿者ども!」
カナタとフィオは綱へ飛びついた。
三日後。
ハルバ島の港には、かつてない数の人が集まっていた。
空喰い鯨の存在と、大風帆連盟の計画は、ガルド自身の証言によって明らかになった。
連盟の上層部は逮捕され、星炉を奪う計画も中止された。
ガルドはすべての責任を負い、裁判を待つ身となった。
護送船へ乗る前、彼は港の端でカナタに小さな包みを渡した。
中には、古い飛行眼鏡が入っていた。
革帯の裏に、ソラト・アオイの名が刻まれている。
「親父の?」
「八年前、あいつが船を降りるとき、私に預けた。“息子が空を飛べる男になったら渡せ”とな」
「じゃあ、まだ早いな。俺、免許ないし」
ガルドは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「ソラトより、よほど厄介な男になりそうだ」
「褒め言葉として受け取っとく」
「一つだけ忠告する。すべてを救える者はいない」
カナタは飛行眼鏡を額へかけた。
「知ってる。だから、手の届く荷物から運ぶんだ」
ガルドは答えず、護送船へ乗り込んだ。
港の工房では、レザトが新しい看板を掲げていた。
《アオイ配達工房――空の果てまで届けます》
「看板が大げさじゃないか?」
フィオが言う。
彼女は灯台守の紺色の外套を脱ぎ、動きやすい短い上着に着替えていた。終端灯台は壊れたが、導歌晶が空喰い鯨へ戻ったことで、鯨自身が歌を世界へ届けられるようになった。
「宣伝は大きい方がいい」
カナタは新しい滑空翼を工房から引っ張り出した。
左右の翼は同じ長さで、布も新品。レザトが三日寝ずに仕上げた機体だ。
翼の名は《ツバメ一号》。
「壊したら、今度こそ勘当だぞ」
レザトが言う。
「分かった。二号を作る準備しといて」
「今すぐ勘当してやる!」
レンチが飛ぶ。
カナタは頭を下げる。
後ろにいたフィオの額へ、こつんと当たった。
「痛い」
「ご、ごめんフィオちゃん!」
「じいちゃん、百発百中だな」
「おまえを狙ったんじゃ!」
工房の前に、一人の老婆が立った。
手には、封をした手紙を持っている。
「配達を頼めるかい?」
カナタが受け取る。
「届け先は?」
老婆は西を指した。
天蓋嵐が晴れた空。
その向こうには、これまで地図に描かれたことのない、小さな島影が浮かんでいた。
「嵐の向こう。孫が、新しい島を見つけたらしいんだよ」
カナタとフィオは顔を見合わせる。
「日帰りは無理そう」
フィオが言う。
「ちょうどいい。地図も描ける」
「飛行免許は?」
「帰ってきたら取る」
「たぶん十八回目も落ちると思う」
「じゃあ十九回目に受かる」
二人は《ツバメ一号》へ乗り込んだ。
カナタは父の飛行眼鏡を下ろす。
胸元の帰星針を開くと、針は西を指した。
そこに、道はなかった。
だからカナタは笑い、翼を広げる。
「アオイ配達工房、特急便!」
風が帆を鳴らす。
「空の果てまで――行ってきます!」
二人と一枚の手紙を乗せ、《ツバメ一号》は青空へ飛び出した。
了