風切りカナタと空喰い鯨

 ハルバ島の正午は、役所の鐘より三秒早くやってくる。

「どけどけどけーっ! 特急便だ! ひかれたくなきゃ、昼飯ごと引っ込め!」

 青い屋根の上を、一人の少年が駆け抜けた。

 ぼさぼさの黒髪。日に焼けた頬。片方だけ丈の短いズボン。背には革の配達かばんを負い、右手には赤い小箱を掲げている。

「カナタ! また屋根を走ってるな!」

「道が混んでるんだよ!」

「屋根は道じゃねえ!」

「今、道になった!」

 怒鳴るパン屋の煙突を飛び越え、洗濯物の列をくぐり、カナタは島の縁へ向かった。

 空に浮かぶ島、ハルバ。

 島の下には海の代わりに、白い雲が果てなく広がっている。雲海の底がどうなっているか、知る者はいない。島から島へ渡る手段は、風帆船か、小型の滑空翼だけだ。

 港では、定期船《コダマ号》が最後の綱を巻き上げていた。

「待って! その船、待ったあああ!」

 カナタの声に、甲板の乗客たちが振り向く。

 だが船長は無情にも出航の笛を鳴らした。巨大な帆が風をはらみ、《コダマ号》は桟橋から離れていく。

「カナタ兄ちゃん、もういいよ!」

 桟橋の端で、十歳ほどの男の子が泣きそうな顔をしていた。病気の母親を見舞いに行く姉へ、形見の首飾りを渡したかったのだ。だが家に忘れ、カナタへ特急配達を頼んだときには、出航寸前だった。

「配達屋に“もういい”は禁句だ」

 カナタは走る速度を上げた。

「届け先が動いてようが、空の向こうだろうが――受けた荷物は、絶対に届ける!」

 桟橋の先端を蹴る。

 足元から、空が消えた。

 見物人たちが悲鳴を上げる。

 カナタは真っ逆さまに落ちながら、背中のかばんから二本の棒を引いた。棒の間に、折り畳まれていた薄い布翼がばさりと開く。

 手製滑空翼《ツバメ零号》

 補修布だらけの片翼が風をつかみ、カナタの体をぐいと持ち上げた。

「うおおおおおっ!」

 船尾すれすれまで近づき、カナタは赤い小箱を投げる。

 甲板にいた少女が両手で受け止めた。箱を開き、中の首飾りを見る。少女は桟橋の弟へ向かって、何度も大きく手を振った。

「配達、完了!」

 次の瞬間、《ツバメ零号》の左の支柱が、ばきりと折れた。

「……あ」

 カナタは笑顔のまま、雲海へ落ちた。

「三十七回目だぞ」

 港の修理工房で、白髪頭の老人レザトは腕を組んでいた。

「何が?」

「今月、おまえが翼を壊した回数だ」

「まだ月の半分だ。記録更新いけるな」

「威張るな!」

 巨大なレンチが飛んできた。カナタは頭を下げてかわす。

 工房の隅では、《ツバメ零号》が無残な姿で吊られていた。港の救助網に引っかかったため、カナタ自身はかすり傷で済んでいる。

 レザトはカナタの祖父であり、ハルバ島一の翼職人だ。

 腕はいい。口は悪い。孫へのレンチ投げだけは百発百中――のはずだが、今日も外した。

「おまえの親父も無茶ばかりしたが、翼はもう少し大事に使った」

「親父は帰ってこなかったけどな」

 工房の空気が、少しだけ重くなる。

 カナタの父ソラトは、八年前に姿を消した。

 世界を覆う巨大な嵐《天蓋嵐》へ入り、そのまま戻らなかった。腕利きの航路士だったが、禁じられた空域へ向かったため、世間では“名誉欲に負けた無謀者”と呼ばれている。

 カナタは胸元の古い方位針を握った。

 父が残した唯一の品だ。

 ただし、その針は北を指さない。

 東へ回り、西へ震え、ときには真下を指す。壊れているのだ、と誰もが言った。

「親父が何を見つけたのか、俺が確かめる」

 カナタはいつも同じことを言った。

「それで航路士になって、誰も知らない空の地図を描く。島の外れにある“立入禁止”の札、全部ひっくり返してやる」

「まずは飛行免許を取れ」

「試験官が俺の才能を理解してない」

「十七回落ちた男が言う台詞じゃねえ」

 そのとき。

 工房の屋根が、爆発した。

 瓦と煙と一緒に、何かが落ちてくる。

「うわっ!」

「わしの屋根えええ!」

 作業台の上へ突っ込んだのは、カナタと同じくらいの年頃の少女だった。

 銀色に近い淡い髪。紺色の外套。首には、星をかたどった青い石を下げている。腕には、古びた木箱を抱えていた。

 少女は煙の中から顔を上げると、カナタをまっすぐ見た。

「あなたが、“風切りカナタ”?」

「屋根代の請求なら、そこのじいさんに」

「おまえにじゃ!」

 少女は木箱を差し出した。

「配達を頼みたい」

「届け先は?」

「終端灯台」

「……は?」

 レザトの顔色が変わった。

 終端灯台。

 ハルバ島から西へ三百里。《天蓋嵐》の内側にあると伝えられる、とうに捨てられた灯台だ。今は地図からも消されている。

「日没までに、この箱を灯台の最上階へ届けて」

 少女の声は落ち着いていた。

 だが箱を抱く指は、小さく震えている。

「報酬は?」

 カナタが聞くと、少女は外套の内側から、黄ばんだ紙片を取り出した。

 そこには、風の流れを示す細かな線と、見覚えのある筆跡があった。

 ――風は、道を覚えている。

 父ソラトの字だった。

「これをどこで手に入れた」

「終端灯台へ来れば、あなたのお父さんが八年前に何をしたのか分かる」

 カナタは木箱を受け取った。

「名前」

「フィオ」

「依頼人フィオ。届け先、終端灯台。期限、今日の日没」

 工房の外で、重い靴音が響いた。

 窓から見ると、灰色の制服を着た男たちが通りを封鎖している。胸には、空路を管理する《大風帆連盟》の紋章。

 その中央を、背の高い男が歩いてきた。

 赤銅色の長髪を後ろへなでつけ、片目に黒い単眼鏡をかけている。腰には細身の剣。風帆連盟の英雄、“嵐狩り”ガルド船長だった。

「その少女は、連盟の重要物を盗んだ」

 扉越しに、ガルドの声が響く。

「箱を渡せ。悪いようにはしない」

 フィオがカナタの袖をつかんだ。

「渡したら、空喰い鯨が殺される」

「空喰い鯨?」

「話は飛びながら!」

 工房の正面扉が蹴破られた。

 同時に、カナタは壁のレバーを引いた。

 床板が開き、修理途中の《ツバメ零号》が跳ね上がる。新しい翼はまだ片側しか張られていない。

「カナタ! そいつは飛べんぞ!」

「片翼あれば十分!」

「十分なわけあるか!」

 カナタはフィオを抱え、翼の操縦帯へ体を滑り込ませた。

「じいちゃん、屋根の修理よろしく!」

「待て、この大馬鹿孫――!」

 工房の裏壁を突き破り、《ツバメ零号》は空へ飛び出した。

「落ちる!」

「飛んでる!」

「落ちながら進んでるだけ!」

「それを滑空って言うんだ!」

 片翼の《ツバメ零号》は、きりもみしながら港の帆柱をすり抜けた。

 背後から、連盟兵の小型艇が三隻追ってくる。

 艇首の発射器から、網弾が撃ち出された。

「右!」

「分かってる!」

 カナタが体重をかける。

 翼は右へ傾くどころか、左へひっくり返った。

「逆!」

「分かってなかった!」

 網が頭上を通り過ぎる。

 カナタは上下逆さまのまま笑った。

「でも、当たらなかった」

「あなた、いつもこうなの?」

「今日は調子がいい方だ」

 フィオが青ざめた。

 ハルバ島の外周を回り込み、二人は古い給水塔の間を抜ける。

 追手の艇は大きく、狭い隙間へ入れない。一隻が塔へぶつかり、水を盛大にかぶった。

「一隻!」

 だが残る二隻のさらに上から、巨大な影が落ちてきた。

 黒い船体。

 三枚の鋼帆。

 船首には、獣の牙のような衝角。

 ガルドの旗艦《グラディオ号》だった。

『カナタ・アオイ』

 拡声管から、ガルドの声が降ってくる。

『君の父親とは旧知の仲だ。彼のような最期を迎えたくなければ、止まりたまえ』

「親父の最期を知ってるのか!」

『知りたければ、箱を渡せ』

 カナタは一瞬、操縦帯を握る手を止めた。

 フィオが言う。

「ガルドは、あなたが迷うと知ってる」

「迷ってない」

「嘘」

「配達中に昔話を始めるほど暇じゃないだけだ」

 カナタは胸の方位針を開いた。

 針は激しく回ったあと、西を指す。

 壊れた針が、初めて迷わず一方向を示した。

「こいつまで、届けろって言ってる」

 カナタは翼を西へ向けた。

 ハルバ島の外には、風の壁がある。

 何層もの気流がぶつかり、目に見えない崖のようになっている。普通の船は決められた航路門を通るしかない。

 だがカナタには、風が見えた。

 正確には、音で分かる。

 帆布の震え。支柱のうなり。頬をなでる冷たさ。無数の音が重なり、空に一本だけ、細い抜け道を作っている。

「つかまってろ」

「何をする気?」

「道がないなら――作る!」

 カナタは風の壁へ突っ込んだ。

 翼が悲鳴を上げる。

 体が上下左右から殴られる。フィオが目を閉じた。

 その瞬間、カナタは操縦帯を緩めた。

 抗うのをやめた片翼が、乱気流に巻かれてくるりと回る。

 一回転。

 二回転。

 三回転。

 風の渦の中心へ入り、最後の一回転で機首が西を向いた。

 次の瞬間、《ツバメ零号》は矢のように風の壁から射出された。

 背後で、追ってきた小型艇二隻が乱気流に弾かれる。

「三隻!」

 カナタは拳を上げた。

 フィオはしばらく口を開けたままだった。

「……あなた、本当に免許を持ってないの?」

「試験は安全運転しか採点しないからな」

「正しい採点だと思う」

 彼方に、黒い雲の柱が見えた。

 天から雲海までをつなぐ、巨大な嵐。《天蓋嵐》だ。

 空の半分を覆う稲妻を見て、フィオの表情が引き締まる。

「日没まで、あと四時間」

「その前に説明しろ。空喰い鯨って何だ」

 フィオは木箱へ目を落とした。

「この世界の島が、なぜ浮いているか知ってる?」

「島の底に“浮星石”があるからだろ」

「浮星石は、何百年もすれば力を失う。新しい星砂を運んでくるのが、空喰い鯨」

 フィオは西の嵐を指した。

「五十年に一度、あの嵐の中を通って、世界を一周する。古くなった岩や、落ちかけた島の欠片を食べて、代わりに新しい星砂を空へまくの」

「じゃあ、怪物じゃないのか」

「人が勝手に怪物と呼んだだけ。巨大な口で島をのみ込む姿しか見なかったから」

「ガルドは、そいつを殺して何をする」

「心臓にある《星炉》を取る。星炉があれば、浮星石を人工的に作れる」

「便利じゃないか」

「一つの星炉で救える島は、せいぜい十。鯨が星砂を運ばなくなれば、百を超える島が、次の百年で落ちる」

 カナタは口笛を吹いた。

「ずいぶん割に合わない計算だ」

「ガルドは、救う島を自分で選べる。星炉を持つ者が、空路も、食料も、国も支配できる」

 木箱の中から、かすかな音がした。

 とくん、とくん。

 小さな心臓の鼓動のようだった。

「中身は?」

《導歌晶》。鯨を終端灯台へ導くための結晶。灯台で目覚めさせないと、鯨は嵐の中で方向を失う」

「方向を失ったら?」

「最初にぶつかるのは、ハルバ島」

 カナタは振り返った。

 遠ざかる故郷の島が、午後の光に浮かんでいる。

「そういう大事なことは、最初に言え!」

「荷物の中身は聞かない主義なんでしょう?」

「依頼人に言い返された!」

 そのとき、頭上で砲声が鳴った。

 《グラディオ号》が、風の壁を強引に突き破ってきた。

 鋼帆の一部を失いながらも、速度は落ちていない。

 船首から、鎖のついた鉄杭が放たれる。

「伏せろ!」

 鉄杭は《ツバメ零号》の尾を貫いた。

 鎖が巻き取られ、二人は旗艦へ引き寄せられる。

 カナタは腰の小刀を抜き、鎖を切ろうとした。

 だが太すぎる。

「フィオ、操縦帯を持て!」

「私、飛べない!」

「俺も免許はない!」

「同じにしないで!」

 カナタは翼の支柱を一本外した。

 片翼しかない機体から、さらに骨組みが抜ける。

「何してるの!?」

「荷物を軽くする!」

「壊してるだけ!」

 支柱で鎖をたたき、鉄杭の留め金を外す。

 自由になった瞬間、《ツバメ零号》は大きく傾いた。

 目の前に、逆さ雨の雲が迫る。

 下から上へ向かって雨が降る、奇妙な空域だ。

「突っ込むぞ!」

「その台詞、今日二回目!」

 二人は逆さ雨にのみ込まれた。

 水が翼を下から打ち上げる。

 視界が白く消える。

 雷鳴の中で、フィオが叫んだ。

「前に島!」

「見えない!」

「私には見える!」

 フィオの首飾りが青く光っていた。

 彼女はカナタの手へ自分の手を重ね、操縦帯を左へ引く。

 白い雨の幕が切れた。

 目の前に、傘のような岩山が浮かんでいる。

 二人は岩肌すれすれで機首を上げたが、《ツバメ零号》の残った翼が木に引っかかった。

 幹が折れる。

 枝が折れる。

 翼も折れる。

 最後に二人は、巨大な青いキノコの上へ落ちた。

 ぽよん、と弾み、草地へ転がる。

「着陸、成功……」

 カナタが親指を立てる。

「今ので成功なら、失敗はどんな状態?」

 フィオは目を回していた。

 そこは《傘岩島》と呼ばれる無人島だった。

 島の上半分は岩の傘に覆われ、逆さ雨から流れ込む水が、天井の川となって光っている。

 《ツバメ零号》は、今度こそ完全に壊れていた。

「直せる?」

「直す。配達の途中だからな」

 カナタは折れた木を削り、翼の骨にする。

 フィオは黙って布を縫い始めた。針仕事は驚くほど速かった。

「灯台守の服は、全部自分で直すから」

「おまえ、灯台守なのか」

「最後の見習い」

 フィオはしばらく迷い、それから話し始めた。

 終端灯台は、かつて空喰い鯨を導くための施設だった。

 だが五十年前、連盟は灯台を閉鎖し、《導歌晶》を持ち去った。鯨の存在を秘密にし、次の回遊で星炉を奪う計画を立てたのだ。

「私の祖父は、灯台を守っていた。八年前、導歌晶を取り戻すために連盟の保管庫へ入った」

「親父も一緒だったのか」

 フィオはうなずいた。

「ソラトさんは、連盟の航路士だった。ガルドの相棒だった。でも計画を知って、祖父に協力した」

「それで、失踪した?」

「二人は導歌晶を奪い返した。けれど逃げる途中で、連盟の船に追いつかれた。祖父は亡くなった。ソラトさんは晶石を持って、天蓋嵐へ入った」

「その箱は、どうやっておまえの手に」

「一か月前、嵐の外れに古い救命艇が流れ着いた。中に箱と、地図と、記録筒があった。ソラトさんのものだった」

「親父は?」

 フィオは答えなかった。

 その沈黙が答えだった。

 カナタは削っていた木を強く握った。

 ささくれが手のひらへ刺さる。

「親父は、灯台まで行けなかったんだな」

「でも箱を守った。八年間、嵐の中を漂っても壊れないように」

「届けられなきゃ、同じだ」

 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。

 カナタは父を信じていた。

 誰に無謀者と笑われても、どこかで生きていると思っていた。いつか空の果てから帰ってきて、「待たせたな」と笑うのだと。

 フィオが言った。

「怒っていいと思う」

「おまえに言われなくても怒ってる」

「私にも。お父さんにも」

「……おまえには怒ってない」

「私は、お父さんの地図を餌にして、あなたを連れ出した」

「そうだな。そこは腹立つ」

「ごめんなさい」

 フィオは頭を下げた。

「私一人では、終端灯台まで飛べなかった。誰にも頼れなかった。連盟が怖くて、全部、敵に見えた」

「俺のことは敵に見えなかったのか」

「最初は、使えそうな馬鹿に見えた」

「謝る流れで殴るな」

「今は……頼れる馬鹿」

「一段しか上がってない!」

 フィオが、初めて小さく笑った。

 カナタはため息をつき、手のひらのささくれを抜いた。

「配達屋は、荷物の中身を聞かない。依頼人の過去も聞かない」

「さっき散々聞いてた」

「今日は特別だ。代わりに、届け終わるまで勝手にいなくなるな」

 フィオは目を瞬いた。

「それは、命令?」

「契約の追加条件」

「……分かった」

 二人は握手をした。

 その瞬間、カナタの胸元の方位針がかちりと鳴った。

 針は木箱へ向いている。

「これ、北を指す道具じゃないのかも」

 フィオが方位針をのぞき込む。

「古い灯台守は、“帰星針”を使ったと聞いたことがある。星砂の流れを感じて、帰るべき場所を示す針」

「帰るべき場所、ね」

 カナタは蓋の裏を見た。

 今まで気づかなかった小さな文字が刻まれている。

 ――道に迷ったら、届けたいものを思え。

 父の字だった。

 カナタは方位針を閉じる。

「親父の言い訳を聞くのは、灯台に着いてからだ」

 修理した翼を立てる。

 左右の形は不格好で、布の色も違う。だが、風を受けるには十分だった。

「行くぞ、フィオ」

「日没まで、あと二時間」

「余裕だ」

「その根拠は?」

「配達屋の勘」

「一番信用できない根拠だった」

 終端灯台は、嵐の中で眠っていた。

 雲を突き抜けた細長い岩礁の上に、白い塔が立っている。

 半分は崩れ、灯火は消え、周囲を青い稲妻が這っていた。

 《ツバメ零号》は最後の上昇気流をつかみ、塔の中腹へ滑り込んだ。

 着地と同時に、右の翼が外れて飛んでいく。

「今度こそ完璧な着陸だ」

「機体の半分がなくなったけど」

「半分残った」

 塔の内部は、巨大な楽器のようだった。

 壁一面に金属管が走り、歯車と風車が何層にも組み合わされている。中央には、螺旋階段が最上階まで続いていた。

 二人は駆け上がる。

 途中の壁に、古い航路士たちの名前が刻まれていた。

 その一番下に、新しい傷で彫られた文字がある。

 ――ソラト・アオイ。荷を託す。

 カナタは足を止めた。

 文字の下に、小さな筒が挟まっている。

 フィオが拾ってきたものと同じ、記録筒だ。

 蓋を開けると、かすれた声が流れた。

『カナタ。これを聞いてるなら、おまえはたぶん、俺を追ってきたんだろうな』

 八年ぶりに聞く父の声だった。

『先に謝る。帰れなくて、すまん』

 カナタは唇をかんだ。

『おまえに、でっかい空を見せるって約束した。なのに俺は、世界を救うだの何だの言って、肝心の家族を置いてきた。英雄なんかじゃない。ただの、約束破りだ』

 記録の向こうで、風がうなる。

『それでも、この荷物だけは届けなきゃならない。鯨が死ねば、おまえの島も、いつか落ちる。知らない誰かの島も落ちる。顔も知らない子どもが、空を怖がるようになる』

 父の声が少し笑った。

『だから俺は、最後まで配達屋でいる。俺が届かなかったら、誰かが続きを運んでくれると信じる。道は、一人で終わらせなきゃならないものじゃない』

 短い雑音。

『カナタ。地図は、世界の形を描くものじゃない。誰かが“ここへ行く”と決めた跡を残すものだ』

 そして最後に。

『風は、道を覚えている』

 記録が止まった。

 カナタはしばらく動かなかった。

 泣くつもりはなかった。だが目に入った嵐の雨が、頬を伝った。

「勝手なこと言いやがって」

 拳で涙をぬぐう。

「続きは自分で運べ、ってか」

 フィオは何も言わず、隣に立っていた。

 そのとき、塔全体が揺れた。

 外から鋼鉄の衝角が壁を突き破る。

 《グラディオ号》が灯台へ横付けされ、灰色の制服を着た兵士たちがなだれ込んできた。

「ここまでだ」

 螺旋階段の上に、ガルドが立っていた。

 剣の切っ先が、夕日のように赤く光る。

「箱を渡せ、フィオ。無駄な犠牲を増やすな」

「鯨を殺す方が、ずっと多くの犠牲を生む」

「百年後の百の島より、明日落ちる十の島を救う」

 ガルドは静かに言った。

「私は幼いころ、故郷の島が落ちるのを見た。浮星石が尽きたが、誰も助けられなかった。鯨が星砂を運ぶのを、ただ待てと言われた。来るかどうかも分からない奇跡を」

「だから星炉を奪うの?」

「奇跡を人の手に取り戻す。救う島を選ぶ力を得る」

 カナタがにらむ。

「選ばれなかった島は?」

「すべてを救える者などいない」

「だからって、最初から切り捨てる数を数えてる奴を、俺は英雄とは呼ばない」

 ガルドの単眼鏡が、かすかに光った。

「その目だ。ソラトも同じ目をしていた」

「親父を殺したのか」

「私は止めた。嵐へ入れば死ぬと分かっていた。彼は笑って、“息子に胸を張れなくなる方が怖い”と言った」

 ガルドは剣を構えた。

「愚かな男だった」

「知ってるよ」

 カナタは折れた翼の支柱を構える。

「俺の親父だからな!」

 ガルドが踏み込む。

 剣と支柱がぶつかり、火花が散る。

 一撃で支柱に深い傷が入った。

 カナタは階段の手すりを蹴り、上へ跳ぶ。

 頭上から支柱を振り下ろすが、ガルドは片手で受け止めた。

「速い。だが軽い」

 腹へ柄が入る。

 息が止まり、カナタの体が壁へたたきつけられた。

「カナタ!」

 フィオが木箱を抱えて走る。

 だが兵士たちが行く手をふさいだ。

 ガルドはカナタの胸ぐらをつかみ、崩れた窓辺まで引きずる。

「君は父親より若い。ここで引き返せば、生きられる」

「配達の……途中だ」

「命より大事な荷物か」

「逆だ」

 カナタは血のにじむ口で笑った。

「誰かの命が入ってるから、荷物が大事なんだよ」

 ガルドの眉が動いた。

 カナタは胸元の帰星針を外し、ガルドの単眼鏡へ投げつけた。

 反射的に顔をそらした隙に、体をひねる。

 だが一歩足りなかった。

 ガルドの蹴りが胸へ入り、カナタは窓の外へ放り出された。

「カナタ――!」

 フィオの声が遠ざかる。

 空。

 嵐。

 雲海。

 落ちながら、カナタは手を伸ばした。

 指先に何かが触れる。

 灯台の外壁に垂れていた、古い旗の綱だった。

 綱をつかんだ瞬間、肩が抜けそうな衝撃が走る。

 カナタの体は宙づりになった。

 上では、兵士たちがフィオから箱を奪っている。

 ガルドは中の導歌晶を取り出した。青い結晶は、夕暮れの中で鼓動するように明滅している。

「星喰い砲へ運べ」

 ガルドたちは《グラディオ号》へ戻っていった。

 船が灯台から離れる。

 その船首では、巨大な砲身が展開していた。導歌晶を照準器に使い、空喰い鯨の星炉を撃ち抜く兵器だ。

 日没まで、あとわずか。

 低い鳴き声が、世界を震わせた。

 雲海が盛り上がる。

 山より巨大な影が、嵐の奥から姿を現す。

 空喰い鯨。

 黒い背には、夜空のような星模様が広がっていた。翼のような胸びれが雲を押し分け、開いた口の中には青白い光が渦巻いている。

 美しく、恐ろしい姿だった。

 だが鯨は苦しんでいた。

 導きの歌を失い、嵐の中を迷い、進路を定められずにいる。その巨体が向かう先には、遠くハルバ島の影があった。

 《グラディオ号》の砲口が光る。

 カナタは綱を登ろうとした。

 右肩に激痛が走る。力が入らない。

「こんなところで……」

 風が吹いた。

 ぼろぼろになった旗が、カナタの顔へ張りつく。

 そこには、終端灯台の紋章――一枚の翼と、風の渦が描かれていた。

 片翼。

 カナタは笑った。

「そうだよな。片方あれば、十分だ」

 綱を足に巻きつけ、左手だけで体を引き上げる。

 窓へ戻ると、壊れた《ツバメ零号》の残骸を拾った。

 翼は一枚。

 支柱は二本。

 帆布は裂けている。

 それでも、灯台には風があった。

 五十年、鯨を待ち続けた塔の中を、無数の風管が走っている。

 カナタは父の地図を広げた。

 端に書かれた小さな線が、灯台内部の風管と一致する。

 ――灯火を失ったときは、塔そのものを鳴らせ。

「親父。説明が足りねえんだよ」

 カナタは中央の歯車へ飛び乗り、固まった制御棒を蹴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 さびた棒が折れる。

 嵐の風が一気に塔へ流れ込んだ。

 金属管が震え、低い音を鳴らす。

 ひとつ。

 ふたつ。

 塔全体が巨大な笛となり、空へ歌を放った。

 鯨がこちらを向く。

 同時に、塔の頂上から強烈な上昇気流が噴き出した。

 カナタは片翼を背負い、風の中心へ飛び込んだ。

「特急便、再出発だ!」

 《グラディオ号》の甲板では、星喰い砲の装填が進んでいた。

 フィオは両手を縛られ、帆柱の根元へ座らされている。

「船長、照準が安定しません!」

「導歌晶の出力を上げろ」

「これ以上は結晶が――」

「構わん。星炉を撃ち抜ければいい」

 ガルドの声は冷静だった。

 だが単眼鏡の奥の目は、空喰い鯨から離れない。

 鯨の進路上には、ハルバ島がある。

 このままでも多くが死ぬ。撃てば鯨が死に、将来さらに多くが死ぬ。

 ガルドは歯を食いしばった。

「私は、選ぶ」

 星喰い砲に光が集まる。

 そのとき、見張りが叫んだ。

「船尾上空、何か来ます!」

 雲を突き破り、一枚の翼が飛び出した。

 カナタだった。

 片翼の端に灯台の旗を結び、上昇気流を乗り継いでくる。落ちているのか、飛んでいるのか分からない軌道で、《グラディオ号》へ急接近した。

「お届け物でーす!」

 カナタは甲板へ突っ込んだ。

 兵士を三人巻き込み、樽を五つ倒し、帆の縄を一本切り、最後に逆さまの状態で帆柱へ引っかかった。

「……着陸、成功」

「それ、もう誰も信じない!」

 フィオが叫ぶ。

 カナタは帆柱から落ちる勢いで、彼女の縄を小刀で切った。

「箱は?」

「砲の中!」

「取り返すぞ」

「肩は?」

「左がある」

 二人は甲板を走った。

 兵士たちが剣を抜く。

 カナタは帆柱の綱を切った。巨大な帆が落ち、兵士たちを包み込む。フィオは滑車へ飛びつき、帆を巻き上げて進路を開く。

「右から三人!」

「任せた!」

「私、戦えない!」

「俺も習ったことない!」

「どうして毎回、それで突っ込むの!」

 カナタは床の柄杓を蹴り上げた。

 水が兵士の顔へかかる。ひるんだ隙に足元をすくい、三人まとめて樽の山へ転がした。

「勝てばいい!」

「理屈が乱暴!」

 砲台へ続く階段の前に、ガルドが立つ。

「また来たか」

「配達屋は、受取印をもらうまで帰らない」

「鯨に字が書けるとは思えんな」

「そこは相談する!」

 ガルドの剣が走る。

 カナタは身を反らす。前髪が数本切れた。

 二撃目。

 三撃目。

 カナタは避け続けるが、肩の痛みで動きが鈍る。

 ガルドの剣先が頬を裂いた。

「意地だけでは、何も救えない」

「計算だけでも救えない!」

 カナタは甲板を蹴り、わざと船縁へ追い詰められる。

 背後は雲海。逃げ場はない。

 ガルドが剣を突き出した。

 その瞬間、カナタは身を沈めた。

 剣が背後の帆綱を切る。

 解放された鋼帆が大きく回り、ガルドを横から打った。

 ガルドの体が甲板を滑る。

 剣が手を離れた。

「意地じゃない」

 カナタは息を切らしながら立つ。

「俺は、フィオを信じてる。親父を信じてる。あの鯨が五十年かけて、知らない誰かの島まで救ってきたって話を信じる」

「信じるだけで、空は飛べん」

「飛べるさ」

 カナタは片翼を指した。

「足りない分を、風が持ってる!」

 フィオが砲台の制御盤へたどり着いた。

 青く光る導歌晶を外そうとする。

 だが砲身はすでに限界まで光をためていた。

「カナタ! 止められない!」

 星喰い砲が発射された。

 白い閃光が、空喰い鯨へ走る。

「間に合えええ!」

 カナタは帰星針を開いた。

 針が激しく回り、導歌晶ではなく、鯨の額を指す。

 同時に、終端灯台の歌が嵐を震わせた。

 鯨が身をよじる。

 光線は星炉のある胸を外れ、左の胸びれを貫いた。

 巨体が傾く。

 空全体が沈んだような衝撃が走る。

 鯨が悲鳴を上げた。

 《グラディオ号》も暴風に巻かれ、横倒しになる。

 兵士たちが甲板を滑り、次々に船外へ投げ出されかける。

「帆を閉じろ! 乗員をつなげ!」

 ガルドが叫ぶ。

 自ら綱を投げ、落ちかけた兵士を引き上げる。

 だが船体の下から、崩れた岩礁が迫っていた。

 避けられない。

 空喰い鯨が、傷ついた胸びれを伸ばした。

 巨大なひれが《グラディオ号》を持ち上げ、岩礁との衝突を防ぐ。

 自分を撃った船を、鯨が救った。

 甲板の誰もが言葉を失う。

 ガルドは、単眼鏡を外した。

「……なぜだ」

 フィオが導歌晶を取り外す。

 光を失った星喰い砲から、煙が上がる。

「この子は、救う島を選ばない」

 フィオは結晶を胸へ抱いた。

「だから、五十年も飛び続けられる」

 空喰い鯨の体が、再び傾いた。

 傷が深い。嵐の風に流され、ハルバ島へ向かって落ち始める。

「導歌晶を、鯨の《星窓》へ戻さないと」

「星窓ってどこだ」

「額。日没の瞬間だけ開く」

 西の空で、太陽が雲海へ触れようとしていた。

 鯨の額まで、距離は二百丈。

 その間には、雷と暴風が渦巻いている。

 《ツバメ零号》の片翼は、甲板の端で折れていた。

「無理だ」

 兵士の一人がつぶやく。

 カナタは折れた翼を拾った。

「その言葉、配達屋には禁句だ」

 フィオが導歌晶を差し出す。

「私も行く」

「危ないぞ」

「依頼人は、勝手にいなくならない。追加条件でしょう?」

 カナタは笑った。

「そうだった」

 二人は片翼の操縦帯へ体を入れた。

 ガルドが立ちふさがる。

 カナタは身構えた。

 だがガルドは、腰の剣で旗艦の予備帆を切り落とした。

 厚い布が片翼へかぶさる。

「それで裂け目をふさげ」

「助けるのか」

「勘違いするな。私はまだ、奇跡を信じたわけではない」

 ガルドは折れた帆柱へ綱を結び、巨大な弓のようにしならせた。

「だが、目の前で救われた借りを返さないほど、落ちてはいない」

 片翼を綱へ引っかける。

 ガルドと兵士たちが、帆柱を限界まで引いた。

「進路、鯨の額!」

「風速、計測不能!」

「射出まで三!」

 フィオがカナタの腰へ腕を回す。

「怖い?」

「すごく」

「俺もだ」

「あなたでも?」

「怖くない奴は、たぶん想像力がない」

 カナタは前を見る。

「でも、怖いまま行ける」

「二!」

 太陽が沈む。

 空喰い鯨の額に、星形の裂け目が開いた。

 内部から、夜明けのような青い光が漏れる。

「一!」

 ガルドが剣を振り下ろし、綱を切った。

「行け、風切り!」

 片翼は矢となって飛び出した。

 風が、牙をむいた。

 カナタとフィオは雷雲を突き抜ける。

 翼の布が裂ける。支柱がきしむ。

 正面から稲妻が来る。

「左!」

 フィオの首飾りが光る。

 カナタは操縦帯を引き、紙一重で避けた。

「次、上!」

 上昇気流へ乗る。

 鯨の巨体が近づく。黒い皮膚の星模様ひとつひとつが、家ほどの大きさだった。

 だが鯨は痛みに身をよじり、額の星窓が遠ざかる。

「届かない!」

 片翼の速度が落ちる。

 下は雲海。後ろには戻れない。

 カナタは父の帰星針を開いた。

 針は星窓を指している。

 だが、その周囲を小刻みに揺れていた。

 風は、道を覚えている。

 父は八年前、同じ空を飛んだ。

 灯台へ届かなかったとしても、風の中に道を残した。

 カナタは目を閉じた。

 翼の震えを聞く。

 嵐のうなりを聞く。

 鯨の鳴き声を聞く。

 無数の音の中に、一本だけ、懐かしい口笛のような流れがあった。

「見つけた」

「何を?」

「親父の道!」

 カナタは機首を下げた。

 星窓とは逆方向、鯨の胸元へ落ちる。

「カナタ!?」

「このままじゃ届かない。だから一回、落ちる!」

「説明になってない!」

 鯨の傷ついた胸びれが迫る。

 カナタはその縁すれすれを通り抜けた。

 巨大なひれが生み出す上昇気流が、片翼を下からたたく。

 落下の勢いが、上向きに変わる。

 二人は鯨の体表に沿って、一気に駆け上がった。

 首。

 頬。

 額。

 星窓が目の前にある。

 しかし最後の稲妻が、翼の中央を貫いた。

 《ツバメ零号》が砕ける。

 カナタとフィオの体が、空へ投げ出された。

「フィオ!」

 カナタは左手でフィオをつかんだ。

 右肩は動かない。

 星窓まで、あと十歩分。

 遠い。

 フィオが導歌晶を見た。

 それから、カナタを見る。

「届けて」

 彼女はカナタの胸を蹴った。

 反動で、フィオの体は鯨の額から離れていく。

 代わりにカナタが星窓へ近づく。

「馬鹿!」

「頼れる馬鹿の相棒だから!」

 カナタは導歌晶を抱え、星窓へ手を伸ばした。

 指先が届かない。

 あと少し。

 父の声がよみがえる。

 ――道は、一人で終わらせなきゃならないものじゃない。

 カナタは帰星針を投げた。

 針の鎖が星窓の縁へ引っかかる。

 カナタは鎖をたぐり、最後の距離を飛んだ。

「終端灯台より、特急便!」

 導歌晶を星窓へ押し込む。

「確かに届けたああああ!」

 青い光が、空喰い鯨の全身を走った。

 星模様が一斉に輝く。

 傷ついた胸びれから、きらきらと星砂があふれ出す。

 鯨が大きく鳴いた。

 その声は嵐を割り、雲を開き、遠い島々の窓を震わせた。

 落ちていくフィオの下に、柔らかな風が生まれる。

 鯨の吐息だった。

 カナタも星窓から投げ出され、フィオの隣へ落ちる。

 二人の体を、鯨の息が受け止めた。

 空喰い鯨はゆっくりと向きを変える。

 ハルバ島を避け、世界を巡る古い航路へ乗る。

 その背から、星砂が雪のように降った。

 遠く、ハルバ島の底が青く輝く。

 弱り始めていた浮星石が、新しい光を取り戻していく。

 フィオが笑った。

 涙を流しながら、声を上げて笑った。

 カナタも笑った。

 空の真ん中で、二人は手をたたき合った。

「配達、完了!」

 直後、鯨の吐息が消えた。

 二人はそろって雲海へ落ち始める。

「帰り道は!?」

「考えてなかった!」

「最後までそれなの!?」

 頭上から、一本の綱が落ちてきた。

 《グラディオ号》だった。

 傾いた船体を立て直し、二人を追ってきたのだ。

 綱の先で、ガルドが叫ぶ。

「つかまれ、大馬鹿者ども!」

 カナタとフィオは綱へ飛びついた。

 三日後。

 ハルバ島の港には、かつてない数の人が集まっていた。

 空喰い鯨の存在と、大風帆連盟の計画は、ガルド自身の証言によって明らかになった。

 連盟の上層部は逮捕され、星炉を奪う計画も中止された。

 ガルドはすべての責任を負い、裁判を待つ身となった。

 護送船へ乗る前、彼は港の端でカナタに小さな包みを渡した。

 中には、古い飛行眼鏡が入っていた。

 革帯の裏に、ソラト・アオイの名が刻まれている。

「親父の?」

「八年前、あいつが船を降りるとき、私に預けた。“息子が空を飛べる男になったら渡せ”とな」

「じゃあ、まだ早いな。俺、免許ないし」

 ガルドは一瞬黙り、それから小さく笑った。

「ソラトより、よほど厄介な男になりそうだ」

「褒め言葉として受け取っとく」

「一つだけ忠告する。すべてを救える者はいない」

 カナタは飛行眼鏡を額へかけた。

「知ってる。だから、手の届く荷物から運ぶんだ」

 ガルドは答えず、護送船へ乗り込んだ。

 港の工房では、レザトが新しい看板を掲げていた。

 《アオイ配達工房――空の果てまで届けます》

「看板が大げさじゃないか?」

 フィオが言う。

 彼女は灯台守の紺色の外套を脱ぎ、動きやすい短い上着に着替えていた。終端灯台は壊れたが、導歌晶が空喰い鯨へ戻ったことで、鯨自身が歌を世界へ届けられるようになった。

「宣伝は大きい方がいい」

 カナタは新しい滑空翼を工房から引っ張り出した。

 左右の翼は同じ長さで、布も新品。レザトが三日寝ずに仕上げた機体だ。

 翼の名は《ツバメ一号》

「壊したら、今度こそ勘当だぞ」

 レザトが言う。

「分かった。二号を作る準備しといて」

「今すぐ勘当してやる!」

 レンチが飛ぶ。

 カナタは頭を下げる。

 後ろにいたフィオの額へ、こつんと当たった。

「痛い」

「ご、ごめんフィオちゃん!」

「じいちゃん、百発百中だな」

「おまえを狙ったんじゃ!」

 工房の前に、一人の老婆が立った。

 手には、封をした手紙を持っている。

「配達を頼めるかい?」

 カナタが受け取る。

「届け先は?」

 老婆は西を指した。

 天蓋嵐が晴れた空。

 その向こうには、これまで地図に描かれたことのない、小さな島影が浮かんでいた。

「嵐の向こう。孫が、新しい島を見つけたらしいんだよ」

 カナタとフィオは顔を見合わせる。

「日帰りは無理そう」

 フィオが言う。

「ちょうどいい。地図も描ける」

「飛行免許は?」

「帰ってきたら取る」

「たぶん十八回目も落ちると思う」

「じゃあ十九回目に受かる」

 二人は《ツバメ一号》へ乗り込んだ。

 カナタは父の飛行眼鏡を下ろす。

 胸元の帰星針を開くと、針は西を指した。

 そこに、道はなかった。

 だからカナタは笑い、翼を広げる。

「アオイ配達工房、特急便!」

 風が帆を鳴らす。

「空の果てまで――行ってきます!」

 二人と一枚の手紙を乗せ、《ツバメ一号》は青空へ飛び出した。