第20話 第十章「誓いを喰う竜」後編
ロロの補助腕が全部、拳になる。
「六万の中に俺が入ってる」
「個人名では計算していません」
「だから平気なんだな!」
ロロが投げたレンチを、文字鎖が空中で止めた。
ヴィエルは彼を見ない。
「あなた一人を見れば、決められなくなる。統治者が全員の顔を見ることはできません」
「見えないなら、決めるな!」
「決めなければ、全員が落ちる」
その瞬間、王都が激しく傾いた。
炉心の星晶に黒い亀裂が走る。
無数の誓いが、一本の王家主線へ殺到した。カイルの獅子紋が限界まで明るくなり、次いで暗くなる。
「主線、過熱!」とロロ。「王子を外す外さないの前に、管が焼ける!」
星晶の奥から、咆哮が聞こえた。
獣の声ではない。
何千、何万もの言葉が、同時に守れなかった声だった。
――必ず戻る。
――誰も飢えさせない。
――この街を落とさない。
――公平に扱う。
――明日までに直す。
黒い文字が亀裂からあふれ、互いを喰い合い、巨大な骨格を作る。
頭部には王冠のような七本角。
翼は契約書と命令札。
牙は折れた署名。
胸の中央で、王家の獅子紋が心臓のように燃えている。
「街一つを背負う誓約竜〈ヴォウ・ドラゴン〉……」
エリアが古い名を読む。
「オルドの炉影」とヴィエル。「本来は誓いを調停する安全機構です」
「安全に見えない!」
「主線へ矛盾が集中しすぎた。調停対象を、破棄対象と判断した」
「つまり街ごと食う?」とハル。
「簡単に言えば」
「説明を簡単にする場所じゃない!」
竜が最初に喰ったのは、人ではなく記録だった。
セレナの証羽へ顎を向け、外廊投影の時刻、機械衛兵の個体番号、ヴィエルの許可印をまとめて飲み込もうとする。破約から生まれたものにとって、事実は敵である。事実は「仕方なかった」という大きな言葉を、誰が、いつ、何をしたかへ細かく裂くからだ。
「羽を下げろ!」とハル。
「証拠を失えば、救出後に犯行を立証できません!」
「本人が認めた!」
「認めた者が明日も同じ供述をする保証はない。本人が死ねば、なおさらです」
「命より記録?」
「命を救った後、その命へ何が起きたかを奪わせないための記録です!」
竜の牙が迫る。
セレナは羽を捨てず、十二枚へ分けた。一枚を囮に上へ、一枚を炉下へ、残りを各人の背へ縫いつける。
「分散保存。全員、一枚ずつ守ってください」
「俺のには何が?」
「青蝋の成分」
「地味!」
「地味な証拠ほど長く生きます」
竜は囮羽を噛み砕く。
その隙にロロが拘束具の第一列へリメイクをかけた。
「壊れた機構じゃない。止められた機構……戻るか!」
青い光が四つの鎖を逆回転させる。
カイルの両足が自由になる。だが戻った動きは一度だけ。次の鎖は、ヴィエルの命令でまた締まる。
「外したそばから戻る!」
「命令元を止めるまで保たせろ!」とハル。
「機械に精神論を言うな!」
「王子へ言って!」
「俺は機械じゃない!」
「部品って言われてた!」
「敵の定義を採用するな!」
竜の尾が配管を薙ぐ。
青白い光が噴き出し、通路の重力が斜めになる。ハルは床を滑り、炉心の空洞へ投げ出されかけた。右手で突起をつかむ。左肩は固定され、使えない。
ノクスが赤いマフラーへ牙を立てた。
「首が締まる!」
二尾を梁へ巻き、自分の小さな身体を支点にする。
「おまえまで一人で支えるな!」
ハルは足を壁へ押しつけ、体重を戻す。
ノクスの尾が一本、青い光で透けた。破約の匂いを追い続けた代償なのか、ただ光を浴びたのか、今は分からない。分からないことを都合よく友情の証へ変えず、ハルはただその身体を抱き上げた。
「借り一個」
ノクスは前足でハルの鼻を押した。
「数えるな?」
もう一度押す。
「分かった。請求書なし」
エリアは竜の翼の動きを測っていた。
一度目、上から下へ三・二秒。
二度目、文字鎖を食う時だけ四・一秒。
三度目、その前に左角が青く光る。
「次の翼撃、四秒後! 左角が合図!」
「道は?」とカイル。
「まだ印がない!」
ハルはセレナから受け取った証羽一枚を、竜の左角へ投げた。
羽が刺さり、黒い事実の文字を光らせる。
「印!」
「証拠を投げないでください!」
「分散した一枚!」
「一枚も証拠です!」
エリアの路図が羽を起点に曲がる。
竜の翼撃は淡緑の線へ導かれ、カイルの拘束鎖ではなく、炉心脇の空いた整備槽へ落ちた。
衝撃で槽が破れ、古い石板の縁が露出する。
ノクスの鼻が、そこへ向いた。
二尾が青い星になる。
最も古い破約は、竜の中ではない。
竜を生む前から、石板の上に重ねられていた。
竜影オルドが翼を広げる。
炉心空洞の重力が崩れ、全員の身体が中央へ引かれた。
セレナは床へ細剣を突き、黒羽を鎖に変える。
「ヴィエル・ノクティス! コード・レインを解除しなさい!」
「解除すれば命令線が分裂する」
「維持しても竜が生まれています!」
「なら別の命令へ束ねる」
ヴィエルが杖を振る。
文字鎖が竜の翼へ巻きつき、命令する。
「停止せよ。王都維持を最優先」
竜は鎖ごと噛み砕いた。
命令札の破片が黒い雪になる。
「役所の言うこと聞かないぞ!」とロロ。
「破られた命令からできてるんだ。命令が餌になる!」とハル。
竜の前脚が振り下ろされる。
カイルが左拳を握り、右腕の籠手がないまま叫ぶ。
「我が誓いは、最後に立つ盾となること!」
胸の獅子が燃える。
光鎖に縛られた身体の前へ、深紅の大盾が生まれた。獅子の大盾〈レグルス〉。背後にいる者の数だけ、炎が厚くなる。
ハル、エリア、ロロ、セレナ、ノクス。
そして、敵であるヴィエルまで盾の後ろに入っている。
「おまえまで守るのか!」とハル。
「盾が相手を選んだら、後ろを見る暇が増える!」
爪と盾が衝突する。
カイルの古傷が開き、血が礼装を染めた。
それでも盾は一秒、二秒、三秒と竜を止める。
「エリア!」
「見えている!」
彼女は槍で空中へ線を描く。
「道なき場所へ、道を!」
淡緑の路図が、崩れた足場からカイルの鎖まで伸びる。
だが竜の翼が視界を遮り、先端の印を付けられない。
「ハル、あの鎖へ金針を!」
「左手使えない!」
「右で投げて!」
「投げたことない!」
「今日、空から落ちたでしょう!」
「それと投擲技能は別だ!」
「落下精度は高かったわ!」
「ケーキへ命中しただけ!」
エリアは三つ編みから金針を抜き、ハルへ投げる。
ハルは右手で受け、竜の爪を避けながら走った。
「一、二、三!」
崩れた管から跳ぶ。
竜の翼の隙間に、カイルを縛る鎖が見える。
金針を投げる。
狙いは外れ、鎖の下の星石へ刺さった。
「外した!」
「近ければ測れる!」
エリアが針の位置を基準に線を曲げる。
路図がカイルの足もとへ届いた。
「一歩!」
「縛られてる!」
「足は動くでしょう!」
「公爵令嬢は要求が高いな!」
カイルが右足を光路へ叩きつける。
道が固まる。
エリアはその線を駆け、槍で鎖を突いた。
しかし文字鎖は切れず、逆に槍へ絡む。
「既存命令の束」とロロ。「切るだけじゃ戻る。命令元を止めないと!」
「ヴィエル!」とハル。
ヴィエルは杖を見た。
自分の術が、王子を縛り、竜を育て、街を支えている。
一本を解けば、三つとも動く。
「解除すれば――」
「また全員の顔を見ずに決めるのか!」
「決めなければ死ぬ!」
「決めろって言ってる! 俺たちへ聞いてから!」
ハルは叫ぶ。
「カイル、外れたら盾を続けられる?」
「痛みは全部戻る。だが三十秒は買う!」
「エリア、炉へ道を何本?」
「今の体力なら十二。本数を増やせば一分以内」
「ロロ、管を分けられる?」
「構造が分かれば! でも古い図面がいる!」
「セレナ、最古の誓文を探せる?」
「見つけた事実しか記録できません。先に現物を」
「ノクス、破られた匂いの一番古いのは?」
ノクスが鼻を上げる。
二尾が星形になり、竜ではなく炉心の下方を指す。
「聞いた」とハル。「全員、できることと限界がある。ヴィエル、おまえも言え」
ヴィエルの銀眼が揺れる。
「コード・レインを部分解除し、三十秒だけ主線を空白にできます」
「その後は」
「新しい束ね方がなければ、炉が割れる」
「三十秒で探す」
「賭けです」
「今まで一人で賭け金を決めてたくせに」
竜の牙がレグルスへ食い込む。
カイルが血を吐く。
「ヴィエル!」
エリアが叫んだ。
「母は、決められなかった九分で死んだのかもしれない。でも、だから私たちから選ぶ権利を奪えとは言わなかったはずよ!」
ヴィエルの仮面に、初めてひびが入った。
陶器の右頬を、細い亀裂が走る。
「三十秒です」
杖を床へ突く。
「それ以上は、誰も救えない」
文字鎖が一斉にほどけた。
カイルが落ちる。
エリアの光路が受け止める。
王家主線が空白になり、炉心の光が乱反射した。
「走れ!」
ハルたちはノクスの示す下方へ向かう。
竜影が追う。
炉心の底には、王家の太い管に隠されるように、古い石板があった。表面の誓文は何度も削られ、上から別の文字を刻まれている。
『王はすべての翼を――』
その下。
『すべての誓いは王へ――』
さらに下に、読めない一行。
「これが最初の約束」とエリア。
「削られてる!」
「ゼロスターなら、最後に正しかった向きを探せる」とハル。
羅針盤を開く。
針は石板を指す。
同時に、鏡門の方角――地球へ帰る可能性を残す道も指した。
二つの方向の間で震える。
蓋の縁に、薄い文字が浮かんだ。
『大解錠は、帰還の方角を代価とする』
耳鳴りが始まる。
世界の上下がずれ、吐き気が込み上げる。
まだ解錠していないのに、鍵が代価を確かめている。
「ハル、何て書いてある」とカイル。
「……何でもない」
きいん。
自分の言葉が割れた。
エリアが読む。
「帰還の方角を、失う?」
鏡門の向こう。
雨の商店街。
旧気象塔に残した携帯電話。
六時四十分を過ぎても、連絡を待つ母。
選ばれる側は、二択を公平だと思わない。
帰る道か、目の前の百万か。
問いの形だけ見れば、答えは決まっているように見える。百万を選ばなければ卑怯者。帰る道を捨てれば英雄。だが百万は顔のない数で、帰る道の先には一人の母がいる。数と顔を同じ秤へ載せた時、秤そのものがすでに片方を傷つけている。
ハルの記憶へ、朝の配達店が戻る。
ナツミは「絶対に帰れ」とは言わなかった。
期限を聞いた。場所を聞いた。遅れるなら連絡しろと言った。
帰ることを命令せず、帰れない可能性まで含めて、次に選び直すための条件を残した。
「ハル」とエリア。「私が門を探す。だから今、あなたが代価を払う必要はない」
「見た?」
「何を」
「地球への道」
「見ていない」
「測った?」
「いない」
「印は」
「……ない」
「じゃあ今のは、路図じゃなく願いだ」
エリアは唇を噛む。
「願ってはいけない?」
「いい。でも願いを、できる約束の服へ着替えさせるな。母さんが待つ時間を増やす」
「なら何と言えばいいの」
「一緒に探すって言って」
「見つかるか分からない」
「分からないまま言える」
エリアは白傘の柄を握り直した。
「あなたが帰る道を、一緒に探す。見つからなければ、見つからないとあなたへ言う。勝手に諦めない。勝手に見つかるとも決めない」
ひびは鳴らない。
大きくない約束だった。
だから、鞘に入った。
カイルが鎖の向こうから言う。
「俺も探す」
「王子は国を直せ」
「国を直しながら探す」
「大きい仕事を二つ言うな」
「では予算を付ける」
「急に現実的」
「金額のない約束は寝言だと、機械屋に怒られた」
「学習したな」とロロ。
「おまえも作業しろ!」
十二秒。
選ぶ時間は減る。
だがハルは、帰還を捨てるのではないと思った。
方角を失う。探し方を変える。
戻る道が一本消えても、戻るという言葉まで消えるわけではない。
「使わないで」とエリア。
「炉が割れる」
「別の方法を探す!」
「あと何秒」
「十二」とロロ。
「十二秒で?」
「探す!」
「母さんも待ってる」
「ならなおさら!」
竜影の尾が振られ、古い足場が砕ける。
王都全体が落下を再開した。
遠くの雲海が、窓のない炉心の隙間から白い壁のように迫る。
ハルは羅針盤を握る。
帰る道。
目の前の街。
どちらも選べば、どちらかを約束できない。
「七秒!」
父は帰ると言って消えた。
ハルは同じ言葉を母へ渡さなかった。
だからこそ、今ここで「必ず帰る」を守るために、目の前の者を見捨てることもできなかった。
「母さん」
声に出す。
「俺、遅れる」
羅針盤の蓋を開く。
その瞬間、王都ルミナスは雲海へ向けて、本当の落下を始めた。
◇ ◇ ◇