第86話 第七章「誰も壊していない」後編

 雷雲から中央へ戻る保守橋は、途中で二つに裂けていた。

 一方は砂漠側へ傾き、熱泥が流れている。

 もう一方は氷原側へ続き、薄氷が張っている。

 地図なら二本。

 身体には、どちらも一本の危険だった。

『ハル、現在位置』

 通信筒からエリア。

「雷雲北縁、避雷柱七番。橋が二本」

『路図では左が保守中央』

「俺の左?」

『現在重力から見て』

「現在重力が分からない」

 沈黙。

 エリアが、自分の言葉を消す時間。

『見える物を言って』

「赤い警告灯。青い管。ノクスの白い尾」

『青管側が中央。警告灯は旧砂漠連絡。ノクスの尾は』

 黒い獣は、二本とも別の橋へ伸ばしていた。

「意見が割れてる」

『ノクスは案内板ではないわ』

「本人に言って」

『ノクス。案内板ではありません』

 ノクスが不満そうに鼻を鳴らし、氷の橋へ前脚を一歩置いた。

 すぐ戻す。

 砂の橋へ鼻を向け、くしゃみ。

「両方嫌だって」

『第三案を探して』

「ない」

『見えていない、に訂正』

 ハルは橋の下を見た。

 足場ではなく、細い通信索が一本。人の体重には耐えない。

 その横に、点検用の滑車。

「荷物なら通れる道がある」

『人は』

「荷物より重い」

『知っている』

「でも、証拠は先に送れる」

 彼は四区画で集めたものを一つずつ配達鞄から出した。

 砂漠の刻印写し板。

 氷原の加熱輪印。

 密林の三分遅延板の番号。

 雷雲の更新票。

 鞄ごと滑車へ結ぶ。

「エリア。荷物だけ中央へ送る」

『あなたは』

「あとから」

『なぜ分ける』

「俺が落ちても、記録は着く」

『却下』

「理由」

『自分を証拠より安く見積もっている』

「証拠がないと事故が」

『あなたがいないと、現場で何を見たか質問できない。紙は答えない』

「でも」

『配達員。荷物と一緒に帰りなさい』

「滑車は一人分ない」

『だから第三案』

 遠くから、金属を打つ音。

 三回。

 橋の向こうでドランが旗索を振っていた。

「ハル! そこの通信索に、こちらの救難旗を添える! 二本なら腰荷重に足りる!」

「どうしてここに」

「帳簿にない旗を追っていたら、帳簿にある貴様がいなかった!」

「俺、帳簿に載ってる?」

「臨時参加者・保険未確定・食費学院持ち!」

「最後いる?」

「金は現実だ!」

 ドランは救難旗の索を投げる。

 一投目、届かない。

 二投目、風に戻される。

「下手!」

「侯爵子息は投網を習わん!」

「旗だよ!」

「なおさらだ!」

 三投目。

 ノクスが跳び、空中で索端を咥えた。

 そのままハル側へ着地する。

「案内板じゃないけど配達はできる」

『ノクスに受取証を』とエリア。

「肉で払う」

 ノクスの尾が一本だけ上がった。

 契約成立らしい。

 通信索と旗索を並べ、二点へ荷重を分ける。

 ハルは鞄を胸へ抱き、腰環を掛けた。

「引いていい?」

 ドランが尋ねる。

「いい。俺が三回叩いたら止めて」

「一回は」

「進め」

「二回」

「ゆっくり」

「四回」

「説明しない。引いて」

 マオの合図を借りた。

 言葉は物と違い、使っても減らない。だが、誰から借りたかを覚えていれば、関係が増える。

 空を渡る。

 下には雷雲。

 上には熱い砂。

 途中で内耳がまた向きを失い、ハルは目を閉じかけた。

「赤い灯!」

 ドランが叫ぶ。

「見るな!」

「じゃあ何を見る!」

「俺を見ろ!」

「それは嫌だ!」

「嫌でも見ろ! 現実は選べん!」

 金色の髪。

 曇り止めを塗りすぎた安全眼鏡。

 右手首をかばい、左手で索を巻く少年。

 人の顔は、上下を持つ。

 目が上、口が下。

 ハルの身体は、ドランの顔から下を借りた。

「一、二、三!」

 橋端へ転がり込む。

 左肩を床へ打たず、右肘と腰で受ける。

「痛み」

『三』とエリアが先に聞く。

「二・五」

「今、誰の真似だ」

「王子」

『悪いところを学ばないで』

「帰還予定を十二息超える!」

 ドランが時計を読む。

「なら走る」

「走るな! 歩け!」

「急いで歩く!」

「それを走ると言う!」

 ハルは走らなかった。

 急いで、一歩ずつ歩いた。

 証拠袋は胸。

 鞄は腰。

 ノクスは横。

 ドランは後ろ。

 一人で戻る道ではなかった。

 ハルは中央へ戻った。

 三百十二息。

「十二息超過」

 エリアが言う。

「迎えに来た?」

「十二息で支度中だった」

「惜しい」

「惜しくない」

 床の四線へ、ハルは現物の位置を置く。

「八時十二分、砂漠開弁。十三分、氷原加熱。十四分、密林閉鎖。十五分、飛行禁止。十六分、盾。全部、自動送信したと思ってる。でも誰も、他の区画が何をしたか声で聞いてない」

「ひびの音は」

「誰にも鳴らなかった」

 オルトが顔を上げる。

「なら故意ではない?」

「違う。鳴らなかっただけ。証明には使えない」

「なぜ言った」

「俺が、犯人を探す気分になってたから。音が鳴る人を待ってた。それが間違いだったって報告」

 ハルは配達鞄を開いた。

「受領確認」

「今?」とオルト。

「今。俺が持ってきた物を、俺の話だけにしない」

 砂漠の刻印写し板。

 氷原の加熱輪印。

 密林の三分遅延板番号。

 雷雲の更新票。

 四つを時刻線の上へ置く。

 エリアは触れず、セレナへ目を向けた。

「封印状態」

「砂漠板、採取者ハル、所有者教官補、受取証あり。氷原印、証羽写し。遅延板番号、ロロが現物確認。更新票、雷雲教官から借用、指印あり」

「返却期限」とドラン。

「事故検証終了後」とハル。

「曖昧だ。日付」

「庭園が落ちなかったら今日」

「落ちる前提で帳簿を書くな!」

「落ちない前提も危ないって、今日ずっと」

「返却予定、検証終了翌日。設備消失時は写し返却」とセレナ。

「それで」

 証拠は、持ってきた者の記憶から切り離された。

 配達員の仕事は、届けた後に荷物を自分のものだと言い張らないことである。

「次、知識の位置を置く」

 エリアは四枚の小札を配った。

『見た』

『知らされた』

『知らなかった』

『知れなかった』

「同じじゃない?」とハル。

「知らなかった、は状態。知れなかった、は経路」

 砂漠教官補の位置へ。

『地割れ予測を見た』

『中央送信済みと思った』

『氷原加熱を知らなかった』

『通常欄に入ったため、他区画警報では知れなかった』

 氷原。

『凍結警報を見た』

『給水保護と知らされた』

『砂漠流量増を知らなかった』

『自区画盤では通常流量を開かなければ知れなかった』

 密林。

『逆圧を見た』

『自動閉鎖を知らされた』

『上流加熱を知らなかった』

『警報画面が一枚だけで、雷雲警報を知れなかった』

 雷雲。

『誘導雷を見た』

『飛行禁止を全班へ知らせた』

『地上扉閉鎖を知らなかった』

『区画外扉は表示対象外で知れなかった』

 白札が、時刻線より多くなる。

「全員、何かを知らなかった」とオルト。

「違います」とエリア。「全員、知らなくてよいよう作られていた部分がある」

「分業だ」

「分業は必要。分断は別」

「境は」

「返事が戻るか。自分の操作が他人へ何をしたか、後からでも知れるか」

 ハルは『知れなかった』の札を一枚持ち上げた。

「犯人を探す時、これは誰のせいになる?」

「情報盤の設計者」とドラン。

「予算承認者」とセレナ。

「運用者」とオルト。

「使った全員」とエリア。

「答えが増えた」

「責任範囲が増えたの。罪人が増えたわけではない」

 ノクスが時刻線を歩き、四枚の『見た』だけを鼻で嗅いだ。

 次に『知れなかった』へ近づき、尾を二本とも伏せる。

「約束が破られた匂い?」とオルト。

「決めつけない」とハル。

 彼はノクスの鼻先から札を奪わず、横へ別の紙を置く。

『反応あり。意味不明』

「ノクスも空白?」

「ノクスはノクス。俺たちが読めないだけ」

 解釈できないものを、役に立たないと呼ばない。

 同時に、都合のよい意味を与えない。

 ハルは羅針盤の蓋へ触れた。

 今なら開くかもしれない。

 失われたのは、区画同士の共有。

 だが彼は触れた手を離した。

「針に『共有』を探させたら、誰か一人の消した記録へ向くかもしれない。でも、今ある札だけで、共有が最初からなかった場所が見える」

「能力を使えば速い」とオルト。

「速い答えが、広い問いを狭くする」

「使わない理由を、能力の否定にするな」

「しない。必要になったら使う。今は、みんなの知らなかったを先に見る」

 オルトは一度うなずいた。

 零星針を使わないことが、成長の証明ではない。

 使える力を、どの問いへ使わないか選ぶことが成長だった。

 エリアは黒い線を引き直す。

「単独犯のいない因果事故〈ドミノ〉

 ロロが通信越しに反発した。

『倒した奴がいないって意味なら違う。みんな一枚ずつ触ってる』

「ええ。誰も無関係ではない。でも、誰か一人を抜けば完全に防げたとも言えない」

「遠隔命令は?」

 ハルが問う。

「まだ見つからない」

「扉が外から閉じた。排出が同時になった。誰かの操作記録にある?」

 エリアは中央盤の履歴を開く。

 四区画の操作。

 教官名。

 整備印。

 生徒の手動申告。

 一行だけ、名がない。

『八時十一分五十九秒』

『基幹保全優先』

『全区画同期/中央排出/外周閉鎖』

『送信者印――』

 印の欄は黒く焼け、読み取れない。

「これ」

 ハルが指す。

「誰の記録?」

 オルトが全名簿を確認する。

 リディアが学院保全鍵を照合する。

 エリアが時刻線へ置く。

 対応する操作担当は、いなかった。

 誰も壊していない事故の中に。

 誰もしたと記録されていない命令が、一つだけ混じっていた。