第118話 第十一章「優勝より遅い道」後編

「一番係留、切断兆候!」

 マオの声。

 最後の主索が、根元から白く毛羽立つ。

「残り時間」とティア。

「不明! 次の振れで切れる!」

「切れた後の線」とハル。

 エリアは地図を見る。

「全艇、現在の牽引を保持。主索が切れた瞬間、反動で島は左上へ跳ねる。鏡砂、右膜を三割閉じる。緑梁、下索を一割緩める。広告一、二、五は保持。三、四、六は〇・五秒後に引く」

『〇・五を測れない!』と広告四号。

「ティア、中央円から合図を」とハル。

「私?」

「全員から見える!」

 ティアは円盤中央にいる。

 白環のどこからでも見える位置。

「合図方法」

「双規刃を交差。切れたら開く!」

「了解」

 彼女は二本の刃を頭上で交差した。

 右膝は痛み四。

 立っているだけで震える。

 白い風の中、赤い編み込みと二本の刃が一本の印になる。

「全員、ティアを見る!」とハル。

 主係留一番が切れた。

 音は、意外なほど小さかった。

 ティアが刃を開く。

 鏡砂、右膜三割閉鎖。

 緑梁、下索一割緩め。

 広告一、二、五、保持。

 三、四、六、半拍後に牽引。

 島が左上へ跳ねる。

 ゼロスター号の橋が大きくしなる。

「橋、限界!」と北塔救難士。

 ハルは島側の固定具へ飛びつく。

 両手。

 左肩を頭上へ出さない。

「肩三!」

「離して!」とエリア。

「固定具が抜ける!」

「離して、代わりを言って!」

 ハルは一瞬、歯を食いしばった。

「カイル! 固定具の横栓!」

「盾はないぞ!」

「左手で押さえて!」

「受領!」

 カイルが橋を渡り、左手で横栓へ体重をかける。

「守る対象、橋一、避難列六! 腕で保持!」

「ハル、離して!」

 ハルは手を離した。

 安全索へ落ちる。

 肩の痛みが四へ跳ねる。

「肩四!」

「作業終了! 船内へ!」とリディア。

「受領!」

 今度は反論しない。

 北塔救難士がハルを引く。

 島は三方向、六方向、九本の索へ支えられた。

 完全には止まらない。

 落下速度が下がる。

 右への傾斜が十五度、十二、九。

「浮揚嚢二、修理!」

 ロロの声。

 白い蒸気が弱まる。

「嚢圧、五十八から六十四、六十九! 上がる!」

 島自身の浮力が戻る。

 牽引索の負荷が少しずつ減る。

「保てる」とエリア。

「どれくらい」とハル。

「今の配置なら、避難完了まで」

「本当?」

「現在の情報では」

「それでいい!」

 救難は、そこからが長かった。

 落下を止めた瞬間に、全員が助かるわけではない。

 橋を渡る。

 負傷者を運ぶ。

 数える。

 もう一度数える。

 区画を調べる。

 戻ろうとする者を止める。

 忘れ物を記録する。

 火を消す。

 浮揚嚢を監視する。

 索の温度を測る。

 派手な一手の後に、地味な百手が続く。

 ゼロスター号の橋を、三十五人ずつが渡る。

 船内で待たず、反対側の鏡砂艇へ移る。

 鏡砂艇は人を避難艇へ送る。

 緑梁重艇は負傷者を横に寝かせられる広い貨物床を開く。

 北塔長翼艇は翼を水平へし、島と広告曳船の間に第二の足場を作る。

 蒼塔艇は競技線内から後続を止めた後、正式な救難指定を受けて医療物資を運ぶ。

 選ばなかった役割が、後から選べるようになる。

「西区、残り百十二!」

「東区、全員確認!」

「上層貴賓区、名簿と実数が三人合わない!」

「名簿の欠席者は?」

「二名!」

「残り一名を探す!」

 ハルは船内の医務床へ横になりながら、通信を聞く。

 左肩を固定され、吐き気止めを舌下へ入れられている。

「俺、探せる」

「寝て探してください」とリディア。

「どうやって」

「情報を聞く」

「針は」

「使いません」

「分かってる」

 ハルは目を閉じた。

「最後に見た場所」

『貴賓区の菓子売場。青い帽子の少年』

「一人?」

『保護者は避難済み。少年だけ名簿照合できない』

「何を持ってた」

『白い旗』

「菓子売場、傾いた時どっちへ流れた?」

『西下』

「旗は?」

『軽いから上へ』

「子供は旗を追う?」

『可能性があります』

「上側のどこ」

 エリアが地図へ、風と床傾斜を重ねる。

「旗は展示塔裏の換気柵へ引っ掛かる」

「マオ、そこ」

『行く。介助一人、装具は触らない』

 数十秒後。

『見つけた!』

 少年は展示塔の裏で、白い旗を握って泣いていた。

 零星針は使わない。

 最後の位置、風、子供の行動をつないだ。

「ハル」とエリア。

「何」

「見つけました」

「うん」

「あなたが」

「みんなで」

「訂正済みですね」

「成長」

「評価は後です」

 リディアと同じ言葉。

 最後の観客が島を離れたのは、落下開始から四十八分後だった。

 点呼は三回。

 二千四百三十七名。

 負傷者四十一。重傷三。死亡者、零。

 数字は奇跡を語らない。

 誰が誰を抱え、誰が手を離さず、誰が自分の店を置き、誰が規則を書き換え、誰が盾をやめ、誰が橋を直し、誰が数字を返したかを省略する。

 だから数字だけで終わらせてはいけない。

 しかし数字を出さず「全員無事」とだけ書けば、負傷した四十一人の痛みを消す。

 記録は、喜びと傷を同じ紙へ置く必要がある。

 島の浮揚嚢が安定し、広告曳船が臨時係留へ運び始めた頃、白環の救難警報が解除された。

 競技長が全艇へ告げる。

『白環杯決勝は、改訂規則の下で再開可能と判断する。希望艇は、残存コースを安全速度で完走できる。順位は実走到着順、救難行動は別記録として事後採点する。棄権も不利益なく認める』

「今から走る?」とハル。

 医務床の上。

「あなたは艇外禁止」とリディア。

「船内なら?」

「着席、左肩固定、吐き気一以下」

「今一」

「十五分後も一なら」

「待つ」

「本当に?」

「更新する」

 エリアは地図卓の前に座っていた。

 両踵へ冷却布。

「私は路図を縮小します。残りは競技線が安定しています」

「勝てない」とロロ。

「最初から今の順位は十二位です」とティアの声。

 彼女は広告曳船一号に拾われ、ゼロスター号へ戻ってきた。

 白帯の光は消え、競技者章も灰色。

 右膝は固定されている。

「ティア、乗っていい?」とハル。

「競技者としては失格。乗員外の救難関係者として、競技長の許可を取りました」

「何でも申請するな」

「申請せず乗れば、あなたが後で困ります」

「もう困ってる」

「追加を防ぎます」

 カイルは右腕を吊り、左手だけで操舵補助へ座る。

「盾なし。巻取で肋骨三。だが船内作業は可」

「王太子が最後でいいの?」とハル。

「王太子だから最初でなければならない規則はない」

「悔しくない?」

「悔しい」

「言うんだ」

「勝ちたかった。今も勝ちたい。救助したから順位などどうでもよいと言えば、今日走った全員へ失礼だ」

「じゃあ走る?」

「最後まで」

 ロロは修理した浮揚嚢の樹脂で髪を固め、機関盤へ戻った。

「橋は?」

「回収中。貨物桟橋、肋骨二、帆桁一本。全部曲がった。直せるけど、今は外板が先」

「修理代」

「競技委員会、観覧運営、特別審査部へ三分割。責任割合は後で殴り合い」

「拳で?」

「帳簿で!」

 ノクスが船首へ戻る。

 赤い前脚布は煤けていた。

「何してた?」とハル。

 夜獣は口から、観客島の避難札の切れ端を出した。

「拾った?」

 二本の尾が一度揺れる。

「マオの札」

 低い位置へ貼った青矢印。

 濡れて半分破れている。

「役に立った」とティア。

「正式板じゃない」とマオの通信。

「正式記録へ追加します」

「紙、捨てる?」

「保全して返す」

「受理」

 十五分後。

 ハルの吐き気は一。

 左肩三。艇外は禁止。

 ゼロスター号は再び白環へ入った。

 すでに十一隻が前にいる。

 一隻は棄権し、救難艇として島へ残った。

 十隻は安全速度で完走を目指す。

「順位は」とハル。

「完走すれば十一艇中十一位」とエリア。

「最下位」

「はい」

「資格は」

「公開基準上、完走記録が必要です」

「じゃあ完走する」

 白環の内壁は、先ほどまでの激流が嘘のように静かだった。

 競技加速流は二割。

 危険流誘導器は停止。

 観客島はもう上にない。

 空いた場所が、黒い影として残る。

「審査艇」とティア。

 白手袋の審査官の艇が、外周へ停船している。

 セレナの黒羽封印が全装置へ付いていた。

 救難中、規則円の更新によって全艇の共通風記録が一つの時刻軸へ揃った。

 その記録と、審査艇の流向板、壁回転命令、隠し採点帳を重ねると、特定の艇の近傍でだけ風が変化していたことが明瞭になった。

 改訂が真相を暴いたのではない。

 救難のため全艇が同じ記録を出した結果、比較できる証拠が増えた。

 セレナが通信へ入る。

『事実を通知します。特別審査部は凪野ハルの零星針出力を測る目的で、抽選球、コース壁角度、審査艇位置を調整した。隠し採点帳に最大出力欄があり、救助行動は刺激としてのみ記録された。観客島落下を意図した証拠は現時点でない。ただし島との複合危険を警告された後も、測定計画を継続した』

「認める?」とハル。

 白手袋の審査官が答える。

『測定計画と危険許容判断は認める。落下を目的とはしていない』

「だから悪くない?」

『そうは言っていない』

「何が悪かった?」

 一拍。

『世界の保全を理由に、対象者と競技者と観客を別々の記録へ置き、同じ危険にいる人間として重ねなかった』

 エリアが地図卓から顔を上げる。

「それを、あなた自身の言葉として記録してよいですか」とセレナ。

『よい』

「責任を受けますか」

『受ける。だが零星針を測る必要がなくなったとは考えない』

「俺も、知る必要はあると思う」とハル。

 皆が彼を見る。

「でも次は、頼め」

『拒否されたら』

「別の方法を探せ」

『時間がなければ』

「時間がある時に探しとけ」

 審査官は答えなかった。

 完全な合意ではない。

 合意しないまま、次の手続きへ進めることも必要だった。

 折返し環を、ゼロスター号はゆっくり通った。

 ハルは船内椅子へ固定されている。

 走れない。

 壁へ出られない。

 だから、声を返す。

「右壁、古い灯。位置補正済み」

「見えています」とエリア。

「言いたかった」

「受領」

「風、左六」

「ロロの計器は五・八」

「俺、二ずれ」

「〇・二です」

「細かい」

「地図ですから」

 カイルが笑う。

「最下位の会話とは思えないな」

「最下位でも道はある」とハル。

「名言のつもりか?」

「普通」

「普通の言葉ほど、後で碑へ刻まれる」

「やめて」

 ティアは六番目の椅子に座っていた。

 右膝支えが、今夜のために作られたように合っている。

「痛み」とマオの通信。

「右膝四から三」

「資格」

「停止」

「後悔」

 ティアはすぐ答えなかった。

「二」

「ある?」

「あります。別の文ならもっと早く、もっと安全にできたかもしれない。私が権限を失わず、継続監督できる方法もあったかもしれない」

「変えたことを?」

「それは零」

「受理」

 マオの声が少し笑った。

「次、どうする」

「事後審査を受ける。文言の副作用を調べる。救助点を誰がどう決めるか、当事者を入れる」

「風紀隊長へ戻る?」

「戻る資格があるかは分かりません」

「戻りたい?」

「同じ形には戻りません」

 ティアは背板の開いた円を指でなぞった。

「閉じた円へ戻るより、入口を作ります」

 白環の出口が見えた。

 他の完走艇は、すでに港へ着いている。

 観客の多くは避難所。残った者、救難員、整備士、負傷していない競技者が出口へ集まっていた。

 順位板には、十隻の時刻。

 十一番目が空白。

「完走条件」とリディア。

「船体の三分の二以上が出口線を通過。全乗員点呼。競技記録提出」とティア。

「あなたは乗員?」

「救難関係者として同乗。競技得点から除外」

「ノクスは」とハル。

 夜獣が唸る。

「乗員登録なし」とティア。

「仲間」

「点呼には入れます」

「最初から」

「訂正します」

 エリアが出口線を描く。

「右帆二割。左帆一割。船体は傷んでいます。最後に無理をしない」

「速くしない?」

「抜く相手がいません」

「時間は縮む」

「何のために」

 ハルは考えた。

「……格好」

「却下」

「厳しい」

「船を残す方が格好よい」

「エリアが格好いいって言った」

「一般論です」

「受け取る」

「返してください」

 ゼロスター号は、最も遅い速度で出口へ進んだ。

 白線を船首が越える。

 船腹。

 焦げた左帆。

 新しい右帆。

 橋を失った下面。

 最後に、仮固定した四番索の切れ端。

『ゼロスター号、完走』

 自動声。

『到着順位、十一位。完走艇中、最下位』

 港から拍手が起きた。

 ハルは少し困った顔をした。

「最下位で拍手されるの、変」

「嫌ですか」とエリア。

「嫌じゃない。でも救助したから順位どうでもいいって拍手なら、少し嫌」

 カイルが出口側へ手を振る。

「なら明日、悔しがればいい」

「今も悔しい」

「それでいい」

「勝ちたかった」

「俺もだ」

 ロロが機関盤を撫でる。

「船も勝ちたかった」

「分かる?」

「音で」

「何て?」

「次は修理代払ってから走れって」

「勝ちたいじゃない」

「生活が先!」

 ティアは白帯を外した。

 規則監督の印は消えている。

 それでも彼女は、帯を捨てない。

 今日書いた文と、失った権限と、残る責任を同じ布へ巻く。

 優勝より遅い道を選んだ。

 遅い道は、正しいから自動的に報われるわけではない。

 失格、怪我、修理費、審査、悔しさが残る。

 それでも十一隻目の船は、最後の線を越えた。

 零星針の透明箱は、最後まで閉じたままだった。

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