第136話 第八章「最下層へ落ちる港」後編
炊事船が回り、避難橋になった。
人が渡り始める。
最初に負傷者。
次に子ども。
その次を誰にするかで、橋の入口が止まった。
「老人が先だ!」
「炉番が残らないと船が燃える!」
「登録者から上げろ、上で寝床が決まる!」
「登録してない人を後にしたら、また最後になる!」
正しい理由が四つある。
橋は一本しかない。
「列を四つにしない!」とエリアの声。「橋の耐荷重は同時十二人。負傷度、移動速度、戻る必要のある役割を混ぜます。三人ずつ!」
「誰が決める!」
「各列から一人。今ここで!」
「そんな時間!」
「決めずに押し合う時間より短い!」
ハルは解除器へ安全蓋を戻し、右腕を振った。
肩は三のまま。
上がってはいない。
下がってもいない。
「ハル!」
パルの声が、橋の下からした。
彼女は船腹へ腹ばいになり、六本指の右手で下を指している。
「籠がいる!」
避難橋の下。
二隻の間に、細長い鉄籠が吊られていた。
元は貨物昇降籠である。
いまは下層共同学校の昼寝室として使われ、毛布と小さな寝台が四つ見えた。
子どもが三人。
教員が一人。
籠を吊る二本の索のうち、片方が切れている。
残った一本は、橋になった炊事船の回転で強くねじれ、一本ずつ金線が裂けていた。
「引き上げる!」とハル。
「上げる滑車が止まってる」とパル。
「手動は」
「中」
「中へどう入る」
「管」
籠の側面へ、子どもの腕ほどの点検管がつながっている。
ハルは入口を見る。
自分の肩幅では通らない。
「私」とパル。
「危険」と言いかけた。
パルの顔が変わる。
本人より先に、身体の小ささを理由へするところだった。
「できる?」とハルは聞き直した。
「入れる。出られるかは、籠が止まれば」
「必要な道具」
「細い鍵。油。匙一本」
「匙?」
「ねじを回す」
「工具じゃないの?」
「工具、返す時に数える。匙はなくなっても食事だけ困る」
「困るだろ!」
ロロの補助腕が、細い鍵と油管を投げる。
「匙でねじ回すな! 先が減る!」
「一本ある」
「盗んだやつか!」
「安全になったら返す」
「今、安全じゃねえ!」
「だから持ってる」
パルは点検管へ入った。
橙色の甲板服が消える。
左右違う靴の片方だけが最後に見え、次には暗闇になった。
「通信」とエリア。
「管の中、声通る」とパル。
「現在位置を言って」
「曲がった。一回。下。次、横。油の匂い。鼠二匹」
「鼠は位置情報?」
「噛む」
「重要です」
籠の索が一本、鋭く鳴った。
あと長くない。
カイルが残った索へ飛びつく。
王盾は使わない。
両腕で抱え、左膝を船腹の鋲へ掛ける。
「王子が綱になってる」とハル。
「使い道が増えたな!」
「笑うな、力抜ける!」
「お前が笑った!」
「これは景気づけだ!」
背中の古い火傷が礼装越しに引きつる。
右脇も痛む。
それでも彼は、痛みを盾の光へ変えなかった。
強い力を持つ者が、いつでも強い力を使うとは限らない。
使わないことが節約である場合も、他人へ役割を残す場合もある。
『中、着いた』
パルの声。
「子どもは!」
『三。先生、足が挟まってる。解放桿、ある』
「引け!」
『印、要る』
「何の」
『登録船長の署名』
籠の内側に、非常解放箱がある。
落下時に籠を隣船へ振り子移動させる装置。しかし誤作動すれば貨物を失うため、登録船長の署名板を差さなければ桿が動かない。
救命装置へ、所有者の許可が要る。
「船長は」とエリア。
『上の避難橋。戻れない』
「代理資格」
『先生、ない。私、ない』
「壊せる?」とハル。
『壊したら、誰が払う』
問いが、管の中から来た。
パルは怖がっている。
死ぬことだけではない。
助けた後、壊した値段を命の借りとして請求されることを。
「先に決める」とハル。
『誰が』
「俺たちが壊す。責任は俺たち。パルが払うんじゃない」
『俺たち、誰』
曖昧な善意へ、曖昧な複数形を重ねた。
ハルは答えを急がなかった。
「ハル。エリア。カイル。ロロ。セレナ。ミラ。ジル。ゼロスター号の調査契約側。壊した費用は後で公開して分ける。払えない人へ、後から命の値段として取らない」
『紙』
「セレナ!」
『記録しています』
「パルの印も、必要なら」
少しの沈黙。
『三つで』
非常箱の中に短い封印紐がある。
パルは右へ一つ。
左へ一つ。
最後に、引けばほどける輪を一つ結んだ。
見た。
聞かれたら答える。
嫌になったら外す。
署名ではない。
それでも、本人が何をしたかを本人の形で残す印だった。
「壊して!」
『成立』
管の奥で金属音。
匙がねじへ掛かる。
一回。
二回。
三回。
『曲がった』
「匙が?」とロロ。
『ねじ』
「どっちも困る!」
『鍵、入った』
解放箱の蓋が外れる。
『桿、引く。三、二、一』
「数え方、ハルみたい」とカイル。
「俺のじゃない!」
非常索が爆ぜた。
籠が振り子になる。
切れかけた吊索を中心に大きく弧を描き、炊事船の船腹へ近づく。
「来る!」
カイルが索を放し、籠へ飛びつく。
ハルも右腕で受ける。
衝撃。
左肩は使わない。
右足を下げる。
ノクスが二本尾を船縁へ巻き、籠の下を支えた。
「ノゥ!」
「夜獣、四人分は無理!」とロロ。
「四人じゃない、籠も!」
「増やすな!」
ジルの結索が飛ぶ。
二点の張力を一度だけ均等にする結索〈イーブン・ライン〉。
籠の左右へ縄が掛かり、傾きが止まった。
扉が開く。
子どもが一人、二人、三人。
最後に、足を挟んだ教員をパルが押して出す。
「パル!」
彼女は戻ってこない。
「どこ!」
「匙」
籠の中で、曲がった匙を拾っている。
「置いてこい!」
「返す!」
「安全になってからでいい!」
「安全になった!」
パルは匙を腰袋へ入れ、外へ出た。
ロロが頭を抱える。
「工具をやる! 匙を工具にすんな!」
「それ、いくら」
「無料――じゃねえ! 救難備品! 所有は共同、返却期限なし、壊れたら申告!」
「細かい」
「お前らに鍛えられた!」
パルは笑わなかった。
ただ、三つの結び目を解放箱から外さずに残した。
誰が壊したか。
誰が許可したか。
誰を救ったか。
後から一人へ押しつけられないように。
港主からの全港放送が流れた。
『下層未登録船群に告ぐ。共同浮力網への不正接続が確認された。登録層の安全確保のため、第四十二層以下の係留を切り離す』
一瞬、町の音が消えた。
切り離す。
六層。
数百人。
船名のない船。
港の構成ではないから、港を救うために捨てても、港を捨てたことにならない。
「不正接続したのは上だ!」とロロ。
伝声筒は返事をしない。
『切離しまで、十五分。登録者は上層へ退避せよ』
「登録者だけ」とパル。
彼女の声が消えそうに小さい。
ハルは伝声筒をつかんだ。
「グラウス! 聞こえてるだろ!」
返事はない。
「十五分で何人上げられる!」
返事はない。
「お前の船だけ軽くして、下を事故にする気か!」
雑音。
その奥で、杖の石突きが一度鳴った気がした。
ミラが伝声筒を奪う。
「港主へ。調査契約側、ミラ・ベルウェザー」
『容疑者の発言権は停止中だ』
今度は返事が来た。
「なら聞くだけでいい。親札は《水平公号》の沈没保険金庫。九百六十七単位。切り離した下層の損失を事故認定し、上層の軽量化分へ保険金を出す。成立?」
沈黙。
「沈黙は成立じゃないよ」
『妄想だ』
「じゃあ金庫を開けて」
『保険原資を危険へさらせない』
「下層は危険へさらせる?」
『登録外だ』
「人だよ」
『感傷で港は浮かない』
「保険金でも浮かない」
『契約で浮く』
「契約へ入れない人の重さを使って?」
放送が切れた。
ミラは伝声筒を戻した。
耳飾りの七つのうち、鳴らない一つを指で押さえる。
「行く」と彼女。
「どこへ」とハル。
「《水平公号》」
「一緒に」
「駄目」
「何で」
「下を走れる人が要る」
「カイルがいる」
「盾を一回使った。ロロは炉。エリアは道。ジルは索。セレナは裁定。黒猫は魚」
「ノゥ!」
「夜獣」とハル。「俺は行ける」
「左肩、三」
「動く」
「動けることと、行くべきことは違う」
「お前が決めるな」
「決めてるのは私の行先」
「一人で行って、戻らないつもりか」
言った後、ハルは自分の声に気づいた。
戻らない。
父。
地球。
王都で消えた人々。
相手の行先を止めたい時、彼はいつも、危険を理由にする。
危険であることは本当だ。
その本当の中へ、自分の恐怖を隠す。
ミラは正面へ近づかなかった。
嘘をつく時の距離ではない。
「戻る約束はしない」
「ほら」
「死ぬ約束もしない」
「そんなの当たり前だろ」
「当たり前を契約へ書かないと、破る人がいる」
「俺は」
「待つのが怖い?」
ハルは答えない。
「答えないの、成立?」
「保留」
「覚えたね」
「行くなら、条件」
「言って」
「親札を取っても、一人で全部背負うな。見つけたことを送る。逃げ道を二つ作る。右膝が五になったら止まる」
「三つある」
「料金は」
「高い」
「何」
「私が決める」
「今決めろ」
「戻ったら」
「それ、戻る約束じゃん」
ミラは短く三度笑った。
「言葉遊び、上手くなった」
彼女は腰の監視索を外そうとする。
ジルの左手が止めた。
「契約外だ、船長」
「知ってる」
「調査契約は全員行動」
「だから解除を申請」
「却下」
「一航士に権限ない」
「船ではある」
「ここは港」
「お前の船がある場所が船だ」
ミラとジルは見合った。
長い付き合いには、説明を省ける強さと、説明を省きすぎる弱さがある。
「親札を抜けば、負担先の変更を止められるかもしれない」とミラ。
「かもしれないで行くな」
「切離しまで十三分」
「私が行く」
「紙を信用しない一航士が、保険金庫を開ける?」
「殴って」
「証拠が壊れる」
「お前なら壊さない?」
「値段が付く物は丁寧」
「人にもそうしろ」
ミラの笑いが消える。
「してる」
「なら戻れ」
「成立はしない」
「保留でいい」
ジルは監視索の結び目を解いた。
「切ってない。逃走扱いにはさせねえ」
「一航士」
「何だ」
「帰ったら契約見直し」
「船長交換条項からな」
《水平公号》は、百メートル上にいた。
下層が滑り落ちる一方、上層の船は軽くなり、さらに高く浮いている。
両者の距離は広がり続ける。
普通の跳躍では届かない。
飛行艇は切離し準備で封鎖された。
ミラは周囲を見た。
落ちる樽。
回る滑車。
逃げる小艇。
切離し刃を運ぶ警備機。
動く物だらけだった。
「使いすぎるな!」とハル。
「上限は私が決める!」
「身体が決める!」
「それ、地図屋の台詞!」
移動物から勢いを盗む風術が開く。
落下樽の速度が消える。
滑車が止まる。
小艇が風の中で立ち往生する。
警備機の翼車が一瞬、空回りする。
奪った勢いが、青い風輪となってミラの義足へ集まる。
一つ。
二つ。
三つ。
星晶骨格が明るくなる。
右膝が曲がる。
腰が沈む。
「四」と彼女。
「もう?」
「痛みじゃない。値段」
「数字を分けろ!」
「痛み三! 蓄勢四!」
彼女は折れた帆柱を走った。
帆柱の先が、空へ突き出している。
最後の一歩で、全部を解放する。
ミラの身体が矢になる。
赤茶のコート。
銅色の巻き髪。
半透明の義足。
七つの耳飾り。
六つが激しく鳴った。
鳴らない一つだけが、黙っていた。
彼女は中層の帆橋を越え、税関塔の外壁へ義足の爪を立て、さらに上へ走る。
警備索が射出される。
その飛ぶ勢いを盗み、逆に自分へ足す。
「容疑者、停止せよ!」
「停止料金、払って!」
白い帆が近づく。
《水平公号》。港主の船。
船腹には、水平を示す金の線。
下層がどれだけ傾いても、その船だけは浮力制御で水平を保っている。
ミラは船尾の保険旗へ手を伸ばした。
あと一メートル。
義足の風輪が消える。
右手が旗索をつかむ。
身体が激しく振られる。
それでも離さない。
《水平公号》の船尾へ、片脚を掛ける。
ハルの声はもう届かない。
ミラは一人で船へ上がった。
自分で決めた行先へ。
契約の外へ。
その下で、自由港の最下層が、雲海へ向けてさらに一段落ちた。