第286話 第十一章「七つの鎖を外す」後編

 樹冠区は、落ちていなかった。

 揺れていた。

 橋市全体が、巨大な吊り橋である。

 生きた根を編み、死王の肋骨へ渡し、風のたびにしなる。

 セトの鎖は、中央の吊り根へ編み込まれていた。

 外すには根をほどく。

 ほどけば橋が切れる。

『切断なら三十拍』と橋市の聞き手。

「切るな」とロロ。

『時間がない』

「切る時間はある。戻す時間がない」

『では』

「別の根へ重さを移す」

『生きた根は命令で伸びない』

「命令すんな。どっちへ伸びてるか聞け」

 機械技師が、植物へ聞けと言う。

 ロロ自身が一番驚いている。

 樹冠の聞き手が、根へ掌を置く。

 魔法ではない。

 湿り。

 張り。

 新芽の向き。

『北根は風上へ。南根は水を求めて下へ。西根は古く、割れている』

「北と南を一時索にする。西は使うな」

『長さが足りない』

 橋市の住民が、自分たちの家の吊り縄を外す。

 屋根が傾く。

 看板が落ちる。

 商人が叫ぶ。

『うちの縄は新しい! 返せ!』

『貸すのか、提供か』とセレナ。

『貸す! 傷んだ分は請求する!』

「記録」

『今それ要るのか!』

「後で奪ったことにしないため」

『請求先は!』

「未定」

『また未定か!』

「未定を空白で残します」

 家の縄。

 市場の旗索。

 子どもの遊具綱。

 種類の違う縄を、一本へしない。

 並列へ渡す。

 一本が切れても、他へ重さが移る。

「準備」と聞き手。

 ハダンが地面へ長い震動を送る。

 セトの拍には、長い休みがある。

 その休みにしか、鎖は緩まない。

 白い光。

 一拍。

 二拍。

 三拍。

 来ない。

「まだ」とネム。

 四拍。

 来ない。

 橋市の人々が、早く引きたくなる。

「待て」とロロ。

『休みが長すぎる!』

「長い間って名前にしただろ!」

 五拍。

 セトの黄い光が、ゆっくり戻る。

「今!」

 長溝の楔。

 ハルは中央弁へ差す。

 橋市で、根がほどかれる。

 鎖が抜ける。

 北根へ荷重。

 南根へ荷重。

 西根が、使っていないのに切れた。

 古い亀裂が風で開く。

 橋の一棟が傾く。

『人がいる!』

 カイルが立ち上がる。

「王盾炎」

「二回目後」とエリア。

「でも」

「戦線離脱条件」

「聞こえた!」

 カイルは籠手へ手を掛ける。

 ハルが止めない。

 代わりに、伝話管へ叫ぶ。

「家の中、何人!」

『二人!』

「出口」

『下側が塞がった』

「上の窓!」

『橋の外だ!』

「窓枠へ縄!」

 商人が、貸すと言った新しい縄を投げる。

 上窓へ引っ掛ける。

 一人。

 老人。

 自分で渡れない。

 橋市の聞き手が、索を身体へ結ぶ。

『引く!』

 住民が引く。

 王子の盾は届かない。

 知らない人々の手が届く。

 老人が窓から出る。

 二人目。

 幼い子。

 怖くて縄を掴まない。

「無理に結ぶな」とハル。

『落ちる!』

「選べる形を二つ!」

 聞き手が、自分の腰へ別の縄を結ぶ。

『一緒に渡る。ここに残って家ごと傾く。どっち』

『一緒』

 短い声。

 二人で渡る。

 家は橋から外れ、下の雲へ落ちた。

 誰も死ななかった。

 家は戻らない。

『樹冠、解除!』

 セトが吊り根の檻から出る。

 長い休みの後、自分の拍で歩く。

 黄い光が、白から離れる。

 残る一つ。

 ルゥ。

 完全同期まで、七分。

 六つの拍が自由になると、王心は静かにならなかった。

 むしろ騒がしくなった。

 別々の周期。

 別々の圧。

 別々の呼吸。

 死んだ王の骨は、一つの心臓へ慣らされすぎていた。

 骨路が、六方向から違う歩き方を思い出す。

 動く骨格の記憶が衝突する。

 北の肋が上がる。

 南が下がる。

 西が捻れる。

 中央の通路が、螺旋へ変わった。

「王心直下まで、二百リュム!」とエリア。

「道」とハル。

「今、道ではありません!」

「使えば道!」

「その定義を毎回通さないで!」

 ハルは走る。

 配達鞄に、最後の三角楔。

 ノクスは先へ行ったはずだった。

 姿がない。

「ノクス!」

 呼ぶ。

 返事なし。

 破約の匂いが濃い。

 ハルには嗅げない。

 ただ、空気が重い。

 舌へ古い樹脂の苦みが付く。

「選定舎は下!」とラハナ。

 彼女も後ろから来る。

「危険です」とセレナ。

「私の管理区です」

「責任で身体制限は消えません」

「左手二。呼吸一。続行」

 ラハナは欠けた指へ補助環を付ける。

 オルダも来る。

「あなたは地上説明へ」とセレナ。

「命令者が現場を見ずに説明できますか」

「では役割。選定舎の旧手順確認。緊急鍵は使わない」

「了解」

 二つの院の二人を、許すためではない。

 知っている者を使う。

 使ったことを免罪へしない。

 螺旋の骨路が反転する。

「跳ぶ!」

 ハルは一を数える。

 二。

 三。

 骨から骨へ。

 右足。

 左。

 肩、二・五。

「申告」とエリア。

「同じ!」

「怖さ」

「五!」

「ノクスが見えないから?」

「それと、時間!」

「分けて」

「ノクス四、時間四、足すと五!」

「算術が違います!」

「感情は足し算じゃない!」

 言いながら、最後の骨へ飛ぶ。

 選定舎の扉。

 半分開いている。

 内側から、低い鳴き声。

「ノクス!」

 ハルが入る。

 約束は、目に見えない。

 選定舎では、見える形へ塗られていた。

 壁一面の誓札。

『治療後、群れへ返す』

『王の命を守る』

『七地域を等しく支える』

『一頭も見捨てない』

『王脈院は奉身仔を保護する』

『危機終了後、拘束を解除する』

 守られなかった文。

 半分だけ守られた文。

 守る対象が途中で入れ替わった文。

 樹脂へ塗られ、檻の壁を作っている。

 破られた約束の臭いを追う獣〈ヴォウ・イーター〉

 ノクスは、その中央で身体を丸めていた。

 二本の尾が腹へ巻き付く。

 耳は伏せる。

 赤い布環を前脚で押さえる。

 その向こうに、ルゥ。

 六本脚を折り、白い輪へ繋がれている。

 他の六頭から吸っていた拍を失い、喉袋が浅く動く。

 鎖は胸ではなく、角へ掛かっていた。

 王冠のように。

「ノクス、出よう」

 ノクスは「ナァ」とも「ノゥ」とも言わない。

 目だけを上げる。

 ハルは近づく。

 一歩。

 ノクスが歯を見せる。

 怖い。

 近づくな。

 助けろ。

 どれか。

 全部か。

 翻訳しない。

「抱く?」

 右の尾が床を打つ。

「嫌?」

 左の尾も打つ。

「ここに残る?」

 耳がさらに伏せる。

「分からない?」

 ノクスは鼻を前脚へ埋める。

 完全同期まで、四分。

 最短は、ノクスを抱えて扉へ飛ぶこと。

 噛まれても。

 嫌がっても。

 危機だから。

 その言葉で、七頭は八十四年繋がれた。

「待つ」とハル。

 エリアが伝話管の向こうで息を呑む。

「何秒」

「決めない」

「撤退条件」

「ルゥの拍が二回止まる。天井の亀裂が三本になる。俺の肩が四」

「ノクスの条件」

「本人が出る。出ないなら、別の道を作る」

「時間は」

「分かってる」

 ハルは扉の内側へ座る。

 ノクスと出口の間から退く。

 赤い布環と同じ色のマフラーを外し、床へ置く。

「これは俺の。こっちはノクスの」

 ノクスの布環へ触れない。

「持って出る。置いて出る。別から出る。決めて」

 ノクスは動かない。

 ハルは一を数える。

 心の中で。

 二。

 三は、跳ぶ合図だ。

 数えない。

 一。

 二。

 一。

 二。

 時間を輪にしない。

 ノクスが顔を上げる。

 ハルのマフラーを見る。

 自分の布環を見る。

 ルゥを見る。

 立つ。

 出口へ来ない。

 誓札の檻の壁へ行く。

「そっち、出口じゃない」

 ノクスは前脚で、古い樹脂を掻く。

 役に立つ獣として匂いを追うのではない。

 壁の外から、新しい空気が来ている。

 鎖の保守孔。

「別の道」

 二本の尾が上がる。

 ノクスは自分の赤い布環を咥える。

 ハルのマフラーは置いたまま。

 保守孔へ身体を滑らせる。

 振り返らない。

 自分で檻を離れる。

「ノクス、外!」

 セレナが記録する。

「本人が保守孔を選択。誘導なし」

「誘導ゼロじゃない。選択肢は出した」

「訂正。選択肢提示後、本人が第三経路を選択」

「今、そこまで」

「後で必要です」

 完全同期まで、二分四十秒。

 ルゥの拍、一度止まる。

「撤退条件、あと一回」とエリア。

「楔を入れる!」

 ルゥの鎖は、七つの中で最も新しかった。

 新しいから、最も複雑だった。

 角の白輪。

 胸管。

 床の選択爪。

 王心へ繋がる六本の吸圧管。

 六本は既に空になっている。

 空の管が、逆にルゥの呼吸を吸う。

「先に管!」とロロ。

「鎖じゃない?」

「痛い場所へ名前を付けろ!」

 ハルは響花を見る。

 角輪。

 半分閉じる。

 胸管。

 全部閉じる。

 床爪。

 開いている。

「胸の六本吸い!」

「長い!」

「長く言えって!」

「採用! 六本吸いを塞げ!」

 栓はない。

 再機の楔は、鎖用。

 ハルは配達鞄を開く。

 紙包み二十一を運んだ後、空になった仕切り。

 防水布。

 予備の伝羽筒。

 地球から持ってきた細い自転車用の修理ゴム。

「これ」

「規格が違う!」

「塞がればいい!」

「圧に耐えねえ!」

「何秒」

「四十!」

「足りる!」

「お前の足りるは怖い!」

 六本。

 ゴムは一本分。

「一本ずつ」とハル。

「同時に塞がないと隣から吸う!」

 ラハナが自分の七つの鍵袋を裂く。

 厚い封印布。

「六片に」

 オルダが指輪の紐を切る。

 七本の細い革紐。

「使って」

「封印は」とハル。

「今は布です」

 役割から物へ戻す。

 ハルが布を六本へ巻く。

 ラハナの欠けた指は結べない。

「頼む」と言う。

 ハルが結ぶ。

 オルダは反対側を押さえる。

 六本吸い。

 一。

 二。

 三。

 四。

 五。

 六本目。

 骨路が跳ねる。

 ハルの身体が壁へ投げられる。

 左手が反射で出る。

 肩。

 三。

「三!」

「続行条件」とエリア。

「四で撤退!」

「今、右手へ替えて!」

「替える!」

 先に言う。

 右手で六本目を結ぶ。

 吸気が止まる。

 ルゥの喉袋が、自分の空気で一度膨らむ。

 拍。

 戻る。

「鎖!」

 三角楔を、角輪の保守孔へ入れる。

 入らない。

「向き」とロロ。

「合ってる!」

「三角の長辺を上!」

「上が動いてる!」

「ルゥの拍で止まる!」

 ネムが白緑の光を追う。

 六つから借りていない、細い一拍。

「今」

 ハルが押す。

 楔が入る。

 鎖は外れない。

「何で!」

「選択爪がまだ噛んでる!」

 床の反対側。

 最短は檻の中央を横切る。

 誓札の樹脂が足へ絡む。

 ノクスが嫌がった場所。

 外周の肋骨を回れば、三十秒余分。

 完全同期まで、一分十秒。

「最短」とラハナ。

「外周」とハル。

「間に合わない」

「最短は床が動く。途中で落ちる」

「確率は」

「知らない」

 エリアの路図が二本出る。

 中央。

 短い。

 赤い未測定。

 外周。

 長い。

 半分測定済み。

「どちらも保証できません」

「外」

「理由」

「中央はノクスが嫌がったから、じゃない。床爪が六拍で閉じる。外周は骨の記憶が七拍。ルゥの一拍に合わせられる」

 ハルは走る。

 外周の肋。

 一。

 二。

 三。

 跳ぶ。

 左肩を上げない。

 右手で縁を掴む。

 脚を振る。

 骨が下がる。

 次。

 一。

 二。

 三。

 ルゥの拍が来ない。

 ハルは跳ばない。

 骨が先に落ちる。

 中央路を選んでいれば、今の床爪へ挟まれていた。

「待って正解」とエリア。

「まだ!」

 拍。

「今!」とネム。

 三。

 跳ぶ。

 反対側。

 床爪の解除輪。

 両手で引く形。

 左肩、三。

「片手じゃ」

 後ろから二本の黒い尾が、解除輪へ巻き付いた。

 ノクス。

 保守孔から、自分で出てきた。

「手伝う?」

 ノクスは返事をしない。

 尾を引く。

 参加を都合よく翻訳しない。

 今、同じ輪を引いている事実だけを使う。

「一緒に引く」

 ハルは右手。

 ノクスは二本の尾。

 左手は使わない。

「一!」

 数える。

「二!」

 三は跳ぶ合図だった。

 今は引く合図へ変えてよいか。

 ノクスを見る。

 二本の尾が床を一度打つ。

 ハルは言う。

「三!」

 引く。

 床爪が開く。

 角輪の鎖が落ちる。

 ルゥの白緑の拍が、王心から外れる。

 七色。

 混ざらない。

 一瞬、全て消える。

「拍!」

 ガンガが中央で膝をつく。

 七つの心臓が、支えを失って別々に乱れる。

 彼の万獣鼓動が、反射で全てを一つへ引こうとする。

「使わない!」とネム。

「このまま、止まる」

「まとめない」

「何をする」

「聞かれる」

 ガンガは胸へ拳を置く。

 叩かない。

 自分の拍を、七頭へ送らない。

 逆に、最初のナアの拍を一つ、自分の胸へ受ける。

 遅い。

 次、カラ。

 二度打ち。

 ドゥ。

 短い跳ね。

 ユル。

 水の揺れ。

 ミイ。

 乾いた戻り。

 セト。

 長い間。

 ルゥ。

 遅い七番。

 万獣鼓動は、群れを自分へ従わせる術だった。

 ガンガは、自分の心臓を七頭へ一拍ずつ従わせる。

 まとめるのでなく、順番に借りる。

 大きな身体が揺れる。

「脈が乱れる」とカイル。

「ガンガ、止めろ!」とハダン。

「七つが、自分で戻るまで」

「お前が止まる!」

 ネムが七色を分ける。

 色が重なりかけるたび、太鼓を一度だけ違う場所へ打つ。

 命令ではない。

 ここに別の拍がある、と示す。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 七つ。

 ナアが歩く。

 北へ。

 カラが歩く。

 赤土の外へ。

 ドゥが崖風へ顔を出す。

 ユルが水から上がる。

 ミイが薬草棚から離れる。

 セトが吊り根の外へ出る。

 ルゥが角を振る。

 落ちた鎖を踏まない。

 別の方向へ一歩。

 七頭が、自分の拍を取り戻す。

 ガンガは術を切る。

 倒れる。

 ネムが支えようとして、体格差で一緒に倒れる。

「重い」と掠れた声。

「先に言え」

「今、言った」

 ガンガは笑う。

 心拍、乱れ三。

 意識あり。

 七つの伝羽へ、別々の足音が入る。

 一頭の王の足音ではない。

 七頭の若い獣が、七つの場所で歩く音。

 地面全体が、その違いを受け取る。

 一度。

 長い音。

 骨路の下から、何かが裂ける。

「亀裂!」とエリア。

 路図へ、白い線が走る。

 一本ではない。

 規則的な間隔。

 大地の端から端へ。

 タル谷の地面が、古い布のように割れ始める。

 ハルはノクスと一緒に、ルゥの選定舎から飛び出す。

 七頭は、初めて別々の方向へ歩いていた。

 その一歩に耐えられないように、国の大地がひび割れた。