第308話 第十章「七つの拍を守る」後編
問題は、王獣鈴を誰が鳴らすかだった。
欠片は中央板の共鳴塔にある。
カイルと作業員たちは、その板ごと雲海へ滑っている。
「俺が行く」とガンガ。
ネムが見上げる。
「王候補だからではない」とガンガ。「七頭の拍を知っているから」
『一人で知っていると言うな』
「七人の拍を持っていく」
七つの珠を、ドゥルガの鐘帯へ結ぶ。
「ネムの空拍も」
灰色の無音珠を八つ目として結ぶ。
『八つ』
「七つを守るための、何も鳴らさない一つだ」
ネムは少し考え、頷く。
「どうやって行く」とハダン。
ゼロスター号が低く入る。
片帆。
船腹へ古い浮き桟橋を吊り、左右には青旗船と橙旗船の補助索。
ミラの声。
「乗船料、後払い!」
「救難では」とガンガ。
「王候補は荷物が多い! 九十三キルに鐘棍!」
「共同食料で払う」
「通貨になってない!」
「燻し根菜」
「量!」
「必要分」
「その必要を誰が決める!」
「食う者」
「交渉が群れすぎる!」
風鈴が鳴る。
「保留! 乗れ!」
ガンガはゼロスター号へ跳ぶ。
船板が沈む。
「重い!」とロロ。
「九十三だ」
「鐘棍込み百二十七!」
「先に言え」とミラ。
「聞かれなかった」
「契約文で一番嫌われる返し!」
ゼロスター号は中央板へ向かう。
ハルの姿がない。
「ハルは」とガンガ。
「先に飛んだ!」とロロ。
「止めなかったのか」
「止めた! 聞いた! 実行しなかった!」
「よくある」とエリアの伝羽。
『よくあってはいけません』
中央板は傾き二十二度。
宮殿の塔が横へ倒れ、屋根瓦が雲海へ落ちる。
板の端に、赤いマフラー。
ハルは旧皮へ測距針を打っている。
右手だけ。
左腕は固定帯の内側。
「一点!」
叫ぶ。
共鳴塔の根元から、深紅の光が返る。
カイルの王盾炎。
攻撃ではない。
測距針の光を反射し、二点目の位置を示す。
「俺が二点だ!」
「盾を使うなって!」
「照明は防御じゃない!」
「痛み!」
「二!」
「嘘!」
「二・五!」
「小数が感染した!」
エリアの地図槍が、遠い甲板で地面を打つ。
測った二点。
ハルとカイル。
光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉が空へ伸びる。
ゼロスター号と中央板の間へ、細い白線。
道ではない。
踏める場所を作らない。
飛ぶ方向を示すだけ。
「作業員から!」とカイル。
「王族最後、まだやるのか」とガンガ。
「掲示した!」
「生きて帰る条件も書いたはずだ!」
「だから最後に乗る!」
「最後を英雄の席にするな!」
「俺が言った台詞を返すな!」
ミラが二本の索を射出する。
ジルの結索が張力を一度だけ均等へ。
作業員一人目。
二人目。
中央板がさらに傾く。
救難監は最後の弁へ手を掛けている。
「まだ閉じていない」と彼。
「何が」とガンガ。
「召集環。主幹を切ったが、塔内に残圧がある。欠片を外せば一度、全量が出る」
「外さない」
「では板ごと落ちます」
「命令器として外さない。共鳴器へ変える」
ガンガはドゥルガを塔の鐘架へ横たえる。
七つの珠。
八つ目の無音珠。
王獣鈴の欠片へ、鐘棍の縁を触れさせる。
「叩けば鳴る」と救難監。
「叩かない」
「なら」
「七地域から、鳴らしてもらう」
黄珠が光る。
北岩根。
ナアの重い一拍を、現地の足拍が返す。
ドゥルガが低く震える。
ガンガは自分の心臓を合わせない。
代わりに、鐘棍を支える左手の力を抜く。
ナアの震動が、そのまま王獣鈴の第一溝へ入る。
一音。
命令ではない。
ナアが出した現在の拍を、鈴が他の六頭へ伝える。
次の空拍。
黄珠、短一つ。
実行。
ハダンの地面命令。
『北、踏み切れ。二歩で戻れ』
ナアは中央へ引かれた一歩を最後まで踏む。
岩根集落が大きく傾く。
患者棚を支える者たちが、自分の地域の拍で息を合わせる。
一歩。
二歩。
ナアの首が北へ戻る。
旧皮第一列が縮み、浮力を赤土側へ渡す。
赤珠。
カラの二度打ち。
どん。
どん。
間を狭めない。
二度目の前へ命令を入れない。
空拍。
短長。
「修正」とネムの伝羽。
『赤土荷車一台、橋上。三拍遅らせる』
中央板は落ちている。
三拍は長い。
ガンガの胸が急ぐ。
自分の拍を流せば、早められる。
やらない。
「三拍待つ」
救難監が叫ぶ。
「板が五十リュム落ちる!」
「荷車が落ちれば、人がいる」
「ここにも九人!」
「だから、その九人のために別の一台を落とさない!」
カイルが作業員を索へ送る。
「俺たちの順番を、他の場所の人へ割り込ませるな!」
三拍。
赤珠、短一つ。
実行。
『赤、二打後に曲がれ』
カラが二度踏む。
赤土が中央へ寄る勢いを使い、三度目の空白で南東へ首を返す。
第二列から第三列へ浮力。
紫珠。
ドゥ。
短い跳ね。
港索手から長一つ。
保留。
「索が一本残った!」
ミラが舌打ちする。
「私が切る!」
「義足三」とジル。
「風盗は使わない!」
「どう行く!」
「普通に滑る!」
「お前の普通が一番信用ならん!」
ミラはゼロスター号から補助艇へ、補助艇から港索へ移る。
風を盗まない。
自分の速度で、止まれる範囲だけ。
右膝二。
接合部二。
帆刃で最後の索を切る。
紫珠、短一つ。
『南、短跳ね一。外へ』
ドゥが跳ぶ。
港と船が、中央から離れる。
第三列の浮力が西へ。
青珠。
ユルは三浅拍。
一つ。
水が左へ。
二つ。
田の縁を越えかける。
長一つ。
保留。
「水門へ子ども!」
ガンガの身体が立ち上がる。
行けない。
ここからでは救えない。
「誰がいる」と問う。
青珠の向こうで、名を言わない声が答える。
『私が行く』
「条件」
『腰索あり。水深胸。子どもまで六歩』
「決めるのはお前だ」
『聞いた。行く』
六歩。
水音。
子どもの咳。
青珠、短一つ。
三つ目。
ユルが水を西へ返す。
第四列から第五列。
白珠。
ミイの速い乾拍。
速さを落とさない。
角度だけ九度。
薬師たちは一斉号令を使わず、塩井の白旗を切れ込みごとに倒す。
ミイは東の乾路へ戻る。
第五列から第六列。
緑珠。
セト。
長い間。
召集音は急かす。
誰も太鼓を打たない。
風を待つ。
中央板がまた落ちる。
カイルが最後の作業員を索へ送る。
救難監だけが残る。
「もう行け!」とカイル。
「構造担当は最後です」
「俺の順番を盗むな!」
「公務上の判断です!」
「今、格好を競うな!」
風が来る。
セトの吊り根が一斉に同じ方へはためく。
緑珠、短一つ。
『樹冠、風へ一歩』
セトが動く。
第六列から、最後の薄翠へ。
ルゥ。
最も若い。
最も遅い。
背には、行き先をまだ永久には決めていない村人たち。
王獣鈴の残った召集音が、最も強くルゥを引く。
中央へ近いからだ。
ガンガの胸へ、ルゥの恐怖が直に来る。
小さい。
戻れば褒められる。
中央へ行けば、誰かが正解を決めてくれる。
それはルゥの感情だけではない。
ガンガ自身の恐怖が混ざる。
王になれば、行き先を一つにできる。
失敗しても、王の失敗として一つへまとめられる。
胸へ手を上げる。
また止める。
「ネム」
助けを求める。
ネムは答えない。
無音珠を、太鼓の中央へ置く。
一拍。
発言しない者の反対余地。
ルゥの背で、村人の声が止まる。
王獣鈴も、ハダンの命令も、ガンガの咆哮も、そこへ入れない一拍。
その空白の中で、最初の子どもが足を踏む。
短い。
墓守が続く。
祭司長。
寝台の脚。
山羊の蹄。
同じ強さではない。
餌歌が始まる。
ルゥが、自分の背へ載る者の音を聞く。
薄翠珠、短一つ。
『若草、自分の一歩』
ハダンは命令文を変えた。
ガンガが作ったのではない。
墓守とネムと、ルゥの一歩が作った。
ルゥは中央へ向けた脚を下ろす。
その場で一度、身体を震わせる。
召集音を皮の外へ落とすように。
そして、名のない若草地へ向き直る。
最後の浮力が、新層へ移る。
中央板の共鳴塔で、王獣鈴の欠片が七度鳴った。
均等ではない。
重い。
二度。
短い跳ね。
三つの浅さ。
乾いた速さ。
長い間。
最後に、遅い一つ。
ガンガは一音も自分へそろえなかった。
万獣鼓動を、初めて逆へ使う。
他者の拍を自分へ寄せるのではない。
自分の心臓が、次の拍へ割り込まないよう抑える。
七つの違いを保つために、自分だけを狭める。
胸骨の古傷が痛む。
混線、四。
頭痛、三。
吐き気、二。
「切れ」とネムの声。
「まだ、中央板が」
「切れ」
二度目。
ガンガは術を切る。
七頭の感情が離れる。
空っぽになる。
膝が落ちる前に、鐘棍へ身体を預ける。
「倒れた」とネム。
「座った」
「塔の床へ顔」
「近い方が響く」
「言い訳」
同じやり取り。
同じではない。
今度は、ネムが先に手を伸ばさない。
「手が要る」とガンガ。
具体的に言う。
ネムは右手を出す。
七頭は、七方向へ戻った。
戻ったと言っても、元の国土へは戻らない。
白い古皮は剥がれ、新しい背はそれぞれ別の空域へ進んでいる。
ナアの北には、黒い岩棚。
ユルの西には、水を受ける雲盆。
カラの南東には、まだ名のない赤い隆起。
セトの上には、吊り根を受ける高風林。
ミイの東には、白い塩風路。
ドゥの南には、船を繋げる断崖雲。
ルゥの先には、若い草の層。
一つ目の着地は、ナアだった。
重い前脚が黒岩棚へ触れる。
地域の者が、同じ瞬間に歓声を上げない。
患者棚を固定する者。
岩根の割れを測る者。
降りるか背へ残るか迷う者。
黄珠へ短一つ。
着地。
二つ目はカラ。
三つ目はドゥ。
順番はある。
優劣ではない。
中央板は、最後の浮力を失った。
落ちる。
「救難監、先!」とカイル。
「殿下が!」
「順番で揉める時間が一番高い!」とミラ。
風鈴が鳴る。
ジルの索が二本。
救難監がゼロスター号へ引かれる。
カイルだけが板へ残る。
「お前、最後を取りすぎだ!」とハル。
「王族一人分!」
「重さで返すな!」
ハルは路図の線を走る。
線は空を支えない。
ゼロスター号の船首から、落ちる中央板へ跳ぶ。
「左腕上げるな!」とエリア。
「上げない!」
右手でカイルの半マントを掴む。
左肩が引かれる。
「三!」
正直に言う。
「撤退!」とエリア。
「今してる!」
カイルが右籠手を外す。
重い。
板へ投げ捨てるのではない。
索へ結び、後から回収できるよう放す。
身体を軽くする。
「国宝!」と侍従の遠い声。
「国宝が重い!」
「本人より?」とハル。
「今その比較いるか!」
二人で跳ぶ。
ジルの索へ。
ミラが風を盗まない。
代わりに、三隻の帆角を一つずつ変える。
青旗船。
橙旗船。
ゼロスター号。
三隻が別々の速さで索を引き、落下の勢いを分ける。
ハルとカイルが甲板へ転がる。
中央板は雲海へ落ちる。
宮殿の塔が白い霧へ消える。
誰も拍手しない。
まだ七地域の着地が終わっていない。
西でユルが水盆へ腹を下ろす。
東でミイが乾いた路へ爪を立てる。
樹冠でセトが風へ根を広げる。
最後に、ルゥが若草地へ前脚を置く。
七つの土地が、別々の時刻に、新しい地表へ触れ始めた。
国は一つの場所へ着地しなかった。
七つの行き先が、互いを消さずに着地を始めた。