第426話 第九章「消えた車両へ飛ぶ」後編
七号車の扉が開いた。
イヴァが開けたのではない。
ラナが内側の閂を外した。
「保留の人、六人」と言う。「私を入れて」
「聞こえた」とイヴァ。
今度はハルが、伝声管をラナの右側へ持っていた。
「一人ずつ名前を言う」とイヴァ。
「時間がない」とグラド。
「名前を省く時間はない」
放送口調ではなかった。
怒る時、イヴァは駅名を省略し、人名を直接呼ぶ。
「ディン・ロア」
「本線指揮車」
かちん。
遠くで、トランジットが鳴る。
青い小穴が、選択記録札へ一つ増える。
「オル・ケド」
「公開法廷」
かちん。
「バスク・ドレン」
「中立救護港の施錠区画。鎖は外せ」
「条件へ分ける。目的地は救護港。拘束方法は別審査」
「車掌らしくなってきたな」
「元だ」
かちん。
「ラナ・シェイ」
「検査台。明日、もう一度聞いて」
「次の確認、一日後。保留」
かちん。
穴は、目的地を決めるためではない。
決めなかったことを、消さないために穿たれる。
ユールは答えられない。
サナが代わりに言う。
「患者。判断能力回復まで共同救護院。代理判断は救命の範囲だけ。目覚めたら本人へ戻す」
イヴァは鋏を鳴らす前に、息を飲んだ。
「サナ。期限は」
「最初の確認は二時間後。意識が戻らなければ六時間ごと。異議は別の医師へ」
かちん。
「乗務員も」とハル。
『何』
「イヴァの行き先」
『私は被拘束者だ』
「それは状態。行き先は」
『公開法廷』
「本当に?」
『逃げない』
「逃げないと、行きたいは違う」
雷が鳴った。
強い雷場で、イヴァの心臓は拍を乱す。
伝声管の向こうに、浅い呼吸が混じる。
『行きたい場所は、小駅ノルン』
「じゃあ」
『先に法廷へ行く。帰るために』
かちん。
自分の切符へ、自分で穴を開ける。
その音が、十三回目より小さく聞こえた。
「条件が入った!」ロロ。
車体が変わる。
何かが止まったのではない。
ばらばらだった力の向きが、一本の仮の約束へそろう。
七号車を吊る三組の伸縮連結器。検査台へ通じる旧保守線。エリアの光路図。テトの模様信号。イヴァの停止印。
それらが「本線へ戻る」一択から外れた瞬間、橋の震えが小さくなる。
『停止標、安定率七十二!』ロロ。
「目的地を増やしたのに?」ハル。
『一個の嘘より、四個の本当の方が構造が楽なんだよ!』
「機械も正直が好き?」
『機械は条件が好きだ。正直かどうかは人間が後から揉めろ!』
選択が記録された後、七号車の内部も作り変えた。
ロロが壁の非常索を四本外す。
「切るなよ。一本四十ルム」
「また金」とハル。
「金額があると、壊した物を誰かが後で覚える」
「人は?」
「名前を覚えろ」
一本目は白。救護院。
二本目は黒。公開法廷。
三本目は黄。本線復帰。
四本目は、色の付いていない麻索。保留。
テトが伝声管から言う。
『色だけだと俺が困ります! 結び目を変えて!』
「見えてる?」
『見えてなくても、後で使う人が困ります!』
白索は一つ結び。
黒索は二つ。
黄索は三角結び。
麻索は結ばない。
「結ばないと、ほどけたみたい」とラナ。
「保留は失敗じゃない」とハル。
彼は配達鞄から、地球の荷札を四枚出した。
日本語で書かれた古い札。
『午前中』
『冷蔵』
『取扱注意』
『不在時持戻』
「最後、保留っぽい」とラナ。
「持ち戻る先がある人用だけど」
「私、あるか分からない」
ハルは札の裏へ、アステリアの共通字で書く。
『今は決めない』
「戻る先を書かなくていい」
ラナが麻索へ札を結ぶ。
結び目は一つできた。
「結んだ」とハル。
「札が落ちないため」
「理由があるなら結んでいい」
人々が四つの索へ分かれる。
同じ場所を選んだ者も、同じ理由ではない。
本線へ戻る護送員。
本線へ戻って家族へ連絡したい収容者。
法廷へ行きたいオル。
法廷へ行けば自分の罪が重くなると知りながら、列車よりましだと選ぶ者。
救護院へ行く者の中にも、怪我人と、怪我人を一人にしたくない者がいる。
「付き添いは医療優先?」とセレナ。
「別欄」とサナ。「本人の治療じゃない。だが患者の不安軽減へ必要な場合は医療行為へ含む」
「誰が決める」
「患者が話せれば患者。話せなければ、既往関係と危険で仮決定。後から解除」
「解除時刻も」
「書け」
ディンは黄索へ立った。
その足が、黒索へ半歩寄る。
「報告だけなら本線」とハル。
「報告した後、命令記録を法廷へ出す」
「じゃ二つ?」
「先に本線。次に法廷」
エリアの光路が、黄から黒へ細くつながる。
「順番も道です」
「一つ選べって言わないんだな」とディン。
「一人へ一つの終点を割り当てる方が、地図として不正確です」
バスクはどの索にも立たない。
「四つ出した」とハル。
「施錠救護港は白か黒か」
「両方の間」
「線を増やせ」
「増やすとロロが怒る」
「一本四十ルムだ!」
「命の分類費へ請求しろ」とサナ。
「どの局だよ!」
バスクは白索と黒索を、折れた槍柄で橋のようにつなぐ。
「これでいい」
「武器を道にした」とハル。
「道にしたからって、武器だったことは消えねえ」
セレナが記録する。
四つの行き先は、五つになった。
そして五つで足りるとは、誰も言わない。
停止標の青い光が、さらに安定する。
術は「全員が同じ目的地へ行く」ことを必要としていなかった。
違う行き先が、違うものとして認められることを必要としていた。
エリアが七号車へ渡ってくる。
日傘槍グリムリリーを橋へ突き、光の線を三本に分ける。
「測定済みの道は、ここまでです」
一本は上層本線。
一本は旧検査台。
一本は小型救護艇の接近可能域。
その間に、白く囲まれた空白がある。
「これは?」とラナ。
「未測定かつ行き先保留者の待機範囲。存在は記載し、経路は決めません」
「地図にいる?」
「います」
ラナは初めて、少しだけ肩を下ろした。
前方分岐器へ行くには、七号車から飛ぶ必要があった。
旧保守線は途中で崩れている。
七号車は三組の連結器へ吊られたまま、上層列車に引かれて進む。
前方百四十メートル、島腹から突き出す黒い分岐台。そこに検査台へ入る手動切替器がある。
線路はない。
あるのは、雷が一秒ごとに現しては消す金属骨だけ。
「飛距離、十一・六メートル」とエリア。
「走れば十」
「空中で距離を値引きしない」
「風が押す」
「横からです」
「斜めに使う」
「あなたの頭の中では、自然現象まで交渉可能なの?」
「風は話を聞かないから好き」
「人の話は聞いて」
エリアはハルの腰へ安全索を結ぶ。
結び目を二度確認し、赤いマフラーの下へ指を差し込む。
「呼吸」
「できる」
「肩」
「一」
「足首」
「零」
「方向感覚」
「車輪音があるから平気」
「なくなったら」
「索を引いて」
「自分で戻ると言って」
ハルは口を閉じた。
飛ぶ前に戻る話をするのは、縁起が悪いと思ってしまう。
縁起とは、危険について具体的に話さないための便利な迷信である。
「方向が分からなくなったら、戻すんじゃなく、戻りたいって言う」
「承認」
「痛み三でも」
「交代を頼む」
「正確に」
「頼む」
エリアが索を締めた。
「出発条件、成立」
カイルが七号車の屋根へ深紅の盾を一枚出す。
「雷撃一回だけ受ける。その後は壊れる」
「王子、痛みは」
「肋骨二、背中三、苺欲四」
「最後は尺度が違う」
「恐怖の単位だ」
ロロが前方から叫ぶ。
『分岐台まで八十秒! 風向き三拍ごとに反転!』
テトが左右の旗を出す。
丸。縞。丸。
「次は――横雷、通過三秒!」
「一」
ハルが数える。
「二」
七号車が右へ振れる。
「三!」
走る。
傾いた屋根を六歩。
左足、右足、右足。車体の継ぎ目を避ける。
跳ぶ。
身体が列車から離れた瞬間、上下が消える。
上層線の車輪音。
下層雷鎖の唸り。
七号車の軋み。
三つの音が三つの地面を作る。
ハルは分岐台を見ない。
目で追えば雷光に位置を奪われる。
六歩で覚えた速度。
腰へ返る索の角度。
頬へ当たる横風。
身体の中へ作った道を走る。
横雷が来た。
カイルの盾が空中へ展開する。
深紅の面へ白光が突き刺さり、盾が半分砕ける。
「半分ある!」カイル。
「セレナへ聞け!」
「割れ方に半分があった!」
「記録しません!」
爆風がハルを押す。
斜めへ使う。
空中で身体をひねる。
左肩が遅れる。
痛みが二へ上がる。
右手を伸ばす。
分岐台の縁。
届かない。
黒い影が先に飛ぶ。
ノクス。
「お前、半往復!」
夜獣が分岐台へ爪を立て、二本尾を索へ巻く。
ハルの腰索が一瞬上へ引かれる。
指が縁へ掛かる。
身体が鉄板へぶつかった。
左肩を守り、右肩から転がる。
「着いた!」
『痛み』エリア。
「二!」
『三なら』
「交代頼む!」
『聞きました』
ノクスが鼻を鳴らす。
分岐台には、二本のレバーがあった。
一方は本線復帰。
一方は検査台。
どちらも錆びている。
「ロロ、見える?」
『胸の鏡を右へ。近い。近すぎ。お前の鼻しか見えねえ』
「鼻は正常」
『分岐器を映せ!』
ハルは胸の小鏡をレバーへ向ける。
ロロの補助腕が遠隔指示板の上で動く音。
『検査台側、古い手動鎖。留め金二つ。上から叩くな。下へ押してから左』
「下ってどっち」
『今お前の膝がある方!』
「分かった」
レバーへ体重を掛ける。
動かない。
ノクスが台の端へ鼻を寄せる。
油の匂い。
その先、鉄板の陰に小さな給油口がある。
「油」
『旧保守油を入れろ。七号車の下で拾った瓶、腰袋!』
ハルは瓶を出す。
植物樹脂の褐色油。
給油口へ三滴。
ロロが叫ぶ。
『全部入れんなよ! 一滴二十ルムする!』
「今言う?」
『今だからだ! 生き残った後で請求できる!』
レバーが動く。
下へ押す。
左へ。
ごとん。
分岐舌が、雷光の中で向きを変える。
「検査台側!」
『信号、変化なし』テト。
「変えた!」
『物理位置は検査台。でも進路表示は本線のままです!』
ロロが鏡越しに歯を鳴らす。
『表示器の問題じゃねえ。連動鎖が逆へ引かれてる』
「どこから」
『前! 次の分岐器!』
旧保守線には、二段の切替がある。
最初の分岐で検査台の手前へ入る。
次の分岐で、検査台へ載るか本線へ戻るかを決める。
ハルが動かしたのは一段目。
二段目は、さらに前方。
そしてそこから、太い保安鎖がこちらへ伸びていた。
鎖は検査台側の舌を引き戻す方向へ張られ、先端が赤熱している。
『固定されてる』ロロ。『緊急本線復帰位置へ機械的に縛られてる!』
「切れる?」
『今切ると分岐舌が中間で跳ねる。七号車の車輪が二つの線へ割れる』
「直せる?」
『現地へ誰か行けば』
「何秒」
『次の切替まで五分四十』
ハルは前方を見る。
二段目の分岐台は、島腹の向こう。
七号車より速く、上層ブラック・ラインが弧を描いて戻ってくる。
路線は輪になっていた。
七号車は下層から上へ。
十一両は上層から下へ。
同じ本線へ、反対側から入る。
合流すれば復帰ではない。
衝突だった。
「グラド!」
『こちらでも確認した』
「制動は」
『本線十一両を止めれば導雷鎖から落ちる。速度差を減らす』
「同じ方向へ入れない?」
『連動器が逆復帰へ固定されている。誰かが事故後に固定した』
「誰」
『不明』セレナが即座に言う。『現在立証できるのは、固定鎖が新しく作動したことまで』
犯人の名前より、列車が先に来る。
上層の黒い車体が、雷雲の向こうに見えた。
窓が十一列。
前照灯が二つ。
七号車へ向かっている。
「エリア」
『見えています。分岐以降、本線衝突経路。測定値を更新』
光の地図で、四本の仮路の先が赤く交差する。
「検査台へ行く道は」
『二段目で閉鎖』
「開ける」
『距離百九十六メートル。橋の残りは一往復半。七号車到達まで五分二十二秒』
「飛ぶ」
『今度は一人で飛ばしません』
エリアが七号車の屋根へ出る。
その後ろに、イヴァ。
両手首を前で拘束されたまま、青い三つ編みを外套へ巻き込んでいる。
「拘束を外して」とハル。
『まだ容疑者です』セレナ。
「分岐器へ行く」
「私が行く」とイヴァ。
「手、縛ってる」
「足がある」
「操作は」
「口で教える」
ハルは次の分岐台を見た。
十一両の監獄列車も見た。
その二つを結ぶ空間に、エリアの光路が一本描かれる。
光は、途中で切れていた。
「測れてない」とハル。
「測りながら行きます」
「間に合う?」
「間に合わせる道ではありません」
「じゃ何」
「戻れる距離までしか描かない道です」
イヴァが、拘束された両手でトランジットの柄を持つ。
「次の停車は、二段目分岐」
「その後は」
「全員で決める」
上層列車の前照灯が雷雲を切った。
二段目分岐器は、本線衝突へ固定されている。
残り五分。
救う道は作った。
そこへ入る道だけが、閉じていた。