第468話 第六章「証言台の目盛り」後編
床目盛りの再現は、三度行われた。
一度目は通常走行。
二度目は進行方向反転後。
三度目は重力九十度切替中。
三度目、法廷車の壁が床になりかけた時、ティアの右膝は装具の内側で悲鳴を上げた。
彼女は黙らなかった。
「中止を申告します。右膝、急停止耐性を超えます」
ベルが即座に鐘を鳴らす。
「再現停止」
誰も彼女を現場から外さなかった。
代わりに、床の角度を固定し、証言を座位へ変更する。
三年前の彼女が欲しかったのは、おそらくこれだった。
申告しても役目を失わない仕組み。
役目を失わないために痛みを隠す社会は、勇敢な人間を増やす。
そして、壊れた勇敢者をもっと増やす。
サナが装具の革帯を緩める。
「腫れは軽い。冷却十分。立位再現は禁止」
「証言は続けます」
「座ってな」
「命令ですか」
「医療上の提案。拒否すれば理由を聞く」
「受けます」
「よし」
サナは人へ選ばせる前に、選べる身体へ戻す。
それが彼女の癖であり、信条であり、他人の拒否を受け入れられない時の弱点でもある。
休廷食の残りを、テトがティアへ差し出した。
「辛いところ、削った」
「ありがとうございます」
「形で分けた。丸が辛くない。三角は辛い」
「なぜ三角を残したのですか」
「君、たぶん食べたがるから」
「正解です」
「正解でも止めるよ」
テトは三角を自分の帽子の箱へしまった。
小さな場面だった。
だが制度は、こういう小ささからしか始まらない。
誰かが無茶をする自由を奪うのではなく、無茶をしなくても役目を失わない場所を作ること。
再現が止まった後、ティアは証言台から降りなかった。
「質問があります」
ミコが手を上げた。
法廷では、証人が証人へ尋ねることは原則としてない。
証言が互いを汚染するからである。
ベルが言う。
「質問の内容を先に述べよ」
「三年前、あの子は『前へ』って言った。私は走った。いま、あの子は自分の号令が悪かったって言う。じゃあ、私が走ったのは、あの子のせい?」
短い問いだった。
法の分類より、ずっと重い。
「因果評価に関わる」と代訴官。
「証人の内心確認でもあります」とセレナ。「回答範囲を限定するなら許可を」
ベルがティアを見る。
「自分が知る範囲だけ答えよ」
「はい」
ティアはミコへ向く。
「私の号令が、あなたの移動へ影響した可能性はあります」
「じゃ、あなたのせい?」
「全部ではありません」
「どのくらい?」
「測れません」
「便利」
「便利ではありません」
「私は、あなたの声を聞いた。火があった。銅板が熱かった。出口が開いてた。四つあった。どれが一番だったか、もう分からない」
「分からない部分を、私の号令だけで埋めません」
「でも謝る?」
ティアの唇が固くなる。
「参照点のない号令を出したことを謝ります」
「私が走ったこと全部に?」
「いいえ」
「そこ、分けるんだ」
「分けます」
「謝り方として、感じ悪い」
「そう思います」
法廷の一部がざわめく。
謝罪とは、相手の求める物語へ自分を置くことではない。
しかし、正確さを盾にすれば、傷つけた相手から逃げることもできる。
ティアは、言葉を足した。
「あなたが走った理由を、私が全部決めたくありません。私の号令が影響した分は、私の責任です。あなたが銅板を守ろうとした選択まで、私の命令へ奪いたくありません」
ミコはしばらく、彼女を見る。
「それなら、少し分かる」
「許しますか」と誰かが訊きかけ、セレナが視線だけで止めた。
許しを、その場の見せ場へしてはいけない。
ミコは許すとも許さないとも言わず、白い帯へ戻った。
次に立ったのはオルサだった。
「俺も聞く」
「内容を」とベル。
「号令を変えるって言ったな」
「はい」
「現場で、そんな長い文を言えるか」
「短縮符号を事前共有します」
「共有されてない人間がいたら」
「形状札を併用」
「目が見えなければ」
「音拍」
「耳が聞こえなければ」
「触覚縄」
「腕を拘束されてたら」
ティアは止まった。
三年前の移送者には、腕を固定されていた者がいる。
彼女の新しい規則は、自由に手を使える救難員を基準に作られていた。
「今の案では不足です」
「すぐ答えを作るな」
オルサは言う。
「分からねえなら、当事者に聞け。おまえ一人で全種類を想像できると思うな」
「はい」
「返事が素直すぎて信用ならん」
「どう答えれば」
「それも自分で決めろ」
ハルが小声で言う。
「難易度、高いな」
「人間関係は試験じゃない」とエリア。
「採点基準がないから怖いんだよ」
「採点されなくても話す」
ティアは証言台の余白へ、新しい一行を書く。
七、号令を受ける者が、規格作成へ参加する。
「規則がまた太った」とロロ。
「太らせた後、削ります」
「誰が削る」
「受ける側と一緒に」
「なら、少しは読める」
休廷の残り二分、ハルがティアの隣へ座った。
「膝、痛い?」
「医療上の回答なら、五段階で二」
「普通の回答」
「痛いです」
「号令のこと」
「痛いです」
「同じ答えなんだ」
「種類は違います」
ティアは、床の一目盛りを見つめる。
「私は、正しい位置へ立てば、正しい命令が出せると思っていました」
「今は?」
「正しい位置が一つではない」
「じゃ、命令しない?」
「必要ならします」
「怖くない?」
「怖いです」
「それでも?」
「怖くない者だけが命令する方が怖い」
ハルは笑わなかった。
「俺も、前って言われたら走ると思う」
「あなたは先に『誰が決めた』と聞くでしょう」
「火の中で?」
「聞く時間がなければ、走る」
「じゃ、一緒だ」
「違います。あなたは走った後で聞く」
「面倒な人みたい」
「面倒です」
「即答?」
「これまでの行動記録から」
「その記録、誰がつけてるの」
セレナの証羽が、遠くで一度動いた。
「怖いから聞かない」
ティアは、ほんの少し笑った。
愛着というものは、大きな告白で生まれるとは限らない。
辛い串を分け、痛いと言い、面倒だと言われ、否定しない。
そういう小さな記録が、次の危機で「この人を失いたくない」という判断へ変わる。
セレナは、七人の証言時刻を床へ並べた。
四十二分十秒。
四十二分十八秒。
四十二分二十二秒。
四十二分二十九秒。
四十二分三十一秒。
四十二分三十六秒。
四十三分零秒。
「最後だけ離れてる」とハル。
「誰?」
ティアは答えを知っていた。
四十三分零秒。
救難候補生の笛が、外部救難局の受信器へ届いた時刻。
「私です」
セレナが羽根札を示す。
「あなたは、切断第二音の直後に号令したと証言している」
「はい」
「オルサ・レイの工具記録では、第二切断は四十二分三十秒」
「十秒程度の遅延なら、受信器で」
「三十秒です」
「笛が遅れて届いた?」とハル。
「通常区間なら最大二秒」とロロ。
「時計が違った」とカイル。
「七つの時計を照合しました」とセレナ。「車内時計、運行時計、保守刻印、医療滅菌器、切断工具、救難局受信器、雨量計。六つは一秒以内。ティアの笛だけが、三十秒後へ出ている」
「私の記憶が違う可能性は」
「ある」
セレナは即答した。
慰めのために可能性を狭めない。
「しかし、笛の音形は『第二切断後』の救難符号です。あなたが記憶を間違えても、符号自体が順序を記録している」
「では、どちらかの時計が」
「時計故障なら、一つだけでは済まない」とロロ。「あの車の時刻は共通脈線から来る」
「共通脈線が三十秒止まった?」
「止まれば全時計が止まる」
「一つだけ、時間の外へ出た」とエリア。
法廷車が、低く軋んだ。
逆さ折返しの入口が近い。
窓の外で、雨が横へ伸びる。
ティアは床目盛りを見る。
一目盛り十五センチ。
時間にも目盛りがあると、人は思う。
一秒、二秒、三秒。
同じ長さで並ぶと。
だが走る列車には、記録されない場所がある。
地図にない駅があったように。
「三十秒」
ティアは言った。
「私だけが遅れたのではなく」
セレナが続きを待つ。
「私の笛だけが、三十秒、どこにも属していなかった?」
法廷車の重力札が、床から壁へ回転した。
その針が、三十秒だけ、どちらも指さない空白を通過する。