第614話 第七章「塩の年輪」後編

 採取は三時間続いた。

 その間にオルロイ号は二度、重力層を抜けた。

 下降速度は少しずつ増し、ゼロスター号は接舷索を伸ばしながら追随した。

 第三船骨層の壁へ、エリアが長い透明板を並べる。

 一層につき一枚。

 全部は置けない。

 だから代表点を取る。

「最古層」とセレナ。

 黒に近い塩。

「中間層」

 燐砂が多い。

「最新層」

 白く、まだ湿っている。

「厚みの周期」とエリア。

 バズが紙帯を広げた。

「三本傷、薄塩、三本傷、厚塩。これが一組。組のあいだで燐砂の比率が変わる」

「何で」とハル。

「アビサの外界潮刻」とエリア。

 地図槍グリムリリーの穂先が、四枚の層図を順に指す。

「逆潮環には大きな潮の季節があります。上の海が近づく高潮期、離れる低潮期。燐砂は高潮期に増える」

「船の三日は同じでも、外の海は季節を進めた」

「そう。船内手順が始点へ戻っても、外界の潮は戻っていない」

 セレナが塩層の数を照合する。

「年ごとの高潮帯が十五」

 静かになった。

 十五という数は、今まで何度も出ていた。

 船の建造年。

 失踪年。

 切断事故。

 父がいなくなってからの歳月。

 だが数字は、同じだけでは証拠にならない。

「別の測定」とセレナ。

「船骨の金属疲労」とロロ。

「修理装置が直している」とカイル。

「表面は。中の結晶まで毎回新品にはできねえ」

 ロロは船骨から髪ほど細い試料を取った。

「曲げ回数の筋がある。三日ごとに同じ負荷。けど、筋の間隔は少しずつ狭い」

「劣化」

「劣化と修復の追いかけっこ。直す方が毎回ちょっと負けてる」

「十五年分?」

「それを今から測る」

 ニアの補助腕が試料へ伸びる。

 止まる。

「許可」

「振動測定だけ」ロロ。

「受理」

 二人の工具が一本の試料へ触れる。

 ニアは振動を読む。

 ロロは焼き色を見る。

「外界換算、十四年八か月から十五年四か月」とニア。

「広い」とハル。

「材料の初期誤差」ロロ。

「塩年輪は十五回」とセレナ。

「船籍上の失踪から十四年十一か月二十六日」とエリア。

 複数の証拠が、一つの答えへ近づく。

 同じでない測定が、同じ範囲を指す。

 それが証明だった。

「偽装の可能性」とセレナ。

 全員が嫌そうな顔をする。

「ここまで調べて?」ハル。

「ここまで調べたから、最後に疑う」

「誰かが十五年分の塩を貼った?」カイル。

「意図は不明でも、人工積層の可能性を除く」

 ロロは最古層と最新層を別々の小皿へ置く。

 水を一滴。

 最新層はすぐ溶ける。

 最古層は油と錆を抱き、外側からゆっくり崩れる。

「一度に塗ったなら、層の境目まで同じ溶け方」とロロ。

「熱」とニア。

「勝手に」

「許可」

「小皿だけ」

 ニアが微熱板を当てる。

 最新層から水蒸気。

 中間層から燐砂の青光。

 最古層から古い機関油の黒煙。

 順序が逆にならない。

「各層が別の時期に乾燥した」とセレナ。

 エリアは燐砂の間に混じる微小な殻を見つける。

「潮羽虫」

「虫?」ハル。

「高潮期にだけ羽化する。殻の大きさが年ごとに違う」

「何で」

「上の海の塩度で成長が変わる」

 十五の高潮帯には、十五年分の異なる殻。

 同じ材料を重ねただけでは作れない。

「人工偽装を棄却」とセレナ。

「疑って悪かったって塩に謝る?」ハル。

「証拠は疑われることで強くなります」

「人は」

「疑い方によります」

 セレナはロロを見る。

「ニアの測定を一人の権威として採用しなかったことは、彼女を否定するためではない」

「分かってる」

「言葉にする必要がある時も」

「今は、分かってるって言わせろ」

「了解」

 ニアが口を開きかける。

 受理、と言わない。

「私も、分かった」

 ロロは返事をしない。

 返事をしないことまで、拒絶の全てにされなかった。

「過去から落ちてきたんじゃない」とハル。

「過去の船ではある」とカイル。

「言葉遊びするな」セレナ。

「過去に造られ、現在まで存在した船だ」とエリア。

「十五年、ここに?」

「ここ、ではない」

 エリアは層図の中央へ三角を描く。

「同じ三日間の航路を、位置だけ少しずつずらしながら反復した」

「三日目に境界へ入る」とロロ。

「一日目へ戻る」

「時間が?」

「手順が」セレナ。

 重要な違いだった。

「時計を巻き戻したんじゃない」とハル。

「船の自動機構が、三日目を終えるたび一日目の命令へ戻した」

「じゃ食卓も」

「一日目の朝食から再開」

「日誌も」

「三日分の欄へ上書きまたは追記」

「修理も」

「同じ点検を再演」

「航路も」

 エリアが答える前に、ニアが言った。

「始点へ戻る」

 平坦な声。

 ロロは、その言葉だけを聞いた。

「戻るって便利だな」

「何が」

「戻ってねえのに、戻ったって言える」

 ニアの補助腕が止まる。

「船は始点へ戻った。外界は進んだ。船体は劣化した。乗員は消えた」

「お前も?」

「……戻っていない」

「最初からそう言え」

「事実の順序が」

「家族の話に船骨より先も後もねえ」

「ある。説明しなければ、感情が原因を置き換える」

「説明しなかった奴が言うな!」

 ロロの補助腕が二本とも上がる。

 怒り。

 喘息の咳が一度、喉へ引っかかる。

 ハルが水筒を出す。

「いらねえ」

「飲まなくても持ってる」

「置け」

「ここ」

 届く距離へ置く。

 押しつけない。

 ソムナの診療所から届いた一枚の伝羽には、治療拒否を「失敗」と書かなかった。

 拒否しても、出口と水は残す。

 その考え方が、遠い夢灯環から船骨層まで届く。

 ロロは三呼吸後、水筒を取った。

「謝るなら」と言う。

 ニアが見る。

「数字、使うな」

「数字を使わずに、何を説明する」

「分かんねえなら、分かんねえって言え」

 ニアは髪のボルトへ指を置く。

 回さない。

「分からない」

 その三音は、彼女の口には大きすぎた。

「何が」

「戻った時、何を言えばよかったか」

「戻ってねえ」

「戻れなかった」

「違う」

「違いを説明して」

「俺にやらせんな」

「……受理」

「それも腹立つ!」

 ロロは水筒を投げた。

 ニアの補助腕が反射でつかむ。

「返せ」

「投げた」

「今返せって言った!」

「了解」バズが横から言う。

「お前じゃねえ!」

 水筒が戻る。

 ロロは受け取った。

 和解はしない。

 会話を切らないだけだった。

 塩年輪の最下層に、異なる傷があった。

 三本ではない。

 一本。

 深い。

 人の工具で刻まれた線。

「初回航行前の基準傷」とニア。

「お前が?」

「違う。十五年前の整備員」

「工具種」とセレナ。

「古式の潮圧鑿」

「日誌に使用記録」

「一日目、出航前点検」

 セレナが日誌の原本頁を開く。

『第一日。船骨九番、潮圧基準傷を設定。第三測点へ』

 次の三日目。

『第三日。逆潮境界に接触。自動帰投を試行』

 次の一日目。

 同じ欄。

 別のインク。

『第一日。船骨九番、基準値内』

 次の三日目。

『第三日。逆潮境界に接触。自動帰投を試行』

 同じ文。

 何十回。

 何百回。

 人の筆跡をまねた機械が、同じ作業を報告する。

 ただし船骨の塩は増える。

 金属疲労は進む。

 外の星は動く。

 船内だけが、三日を終えたことにしない。

「確定」とセレナ。

「何が」とハル。

「オルロイ号は十五年前から現在へ時間移動したのではない」

 エリアが続ける。

「外界の十五年間、同じ三日分の自動航路を反復していた」

 ロロは塩の層を指でなぞる。

 一層。

 一層。

 十五年。

 戻ったふりをした回数。

「船が忘れたんじゃねえ」と言った。

「忘れられなかった?」ハル。

「終わらせる命令がなかった」

 船内鐘が鳴る。

 一日目。

 また最初の鐘。

 しかし、塩の年輪は知っていた。

 最初ではない。

 十五年前から一度も、最初へ戻れていないのだと。