第738話 第九章「過去の自分ならしない」後編

 横重力区画で、橋梁の幻が開いた。

 雨。

 崩れる石。

 泣く子供。

 ハルの身体が反応する。

 一。

 数える。

 二。

 左肩へ力。

 三の前に飛べば、最短で届く。

 記録はそれを知っている。

「人数」と彼は問う。

 泣き声。

「名前」とアムナ。

 返事なし。

「足音」とセレナ。

「なし」とエリア。

「雨の匂い」とノクス。

「ナ」

「水じゃない。冷却油」とロロ。

 幻の橋は、視覚と音だけ。

 床には機関油。

「対象なし」とハル。

 三を言わない。

「進む」でもない。

「次の確認へ」

 橋を避けるのではなく、救助条件を満たさないと判断する。

 幻は消えず、背後で泣き続ける。

 正しい選択が、気分を軽くするとは限らない。

 次の区画。

 婚姻塔の鐘。

 壁へ、エリアの母の筆跡に似た地図。

 中央へ一本の美しい道。

「偽物」とハル。

「断定しない」とエリア。

 彼女の声がわずかに高くなる。

 美しい地図は、彼女を誘惑する。

 正しいからではない。

 完成しているからである。

 未完成は、母の事故報告を思い出させる。

 最後の線を引けなかった地図。

 周囲が、その欠落を母の身分や能力のせいにした記録。

 エリアは地図槍を開く。

 黒板が光る。

 対象エリア、競合地図を訂正。

 最適路へ統合。

 中央へ残留。

 彼女は筆を上げる。

 一本目。

 母の線を消さない。

 二本目。

 自分の線を途中で止める。

 三本目を、足を痛めた住民へ渡す。

「あなたの歩ける道を」

「公女様の方が分かる」

「あなたの痛みは分からない」

 住民は、中央へ行かない迂回線を描く。

 美しさはない。

 階段が多く、途中に休止点が三つある。

 その線が、重力の継ぎ目を外す。

 全員が通る。

 エリアは最後の線を自分で完成させない。

 機関音。

 ロロの耳に、ゼロスター号の主軸と同じ異音。

「左の帆軸!」

 身体が戻ろうとする。

 船を救う。

 機関を直す。

 自分が残る。

「ゼロスター号は外」とセレナ。

「音は同じ!」

「同じ音を作れる」

「直さないと証明できない!」

 ロロの右手が痺れ、工具が落ちる。

 過去なら、痺れを隠して拾う。

「右手、動かない!」

 叫ぶ。

 住民の一人が工具を拾う。

「何をする」

「豆パンで、左の小弁を四分の一」

「どれが豆パン」

「細い奴!」

「食べ物名、役に立たない!」

「今さら!」

 住民が小弁を回す。

 異音は消えず、壁の向こうへ移る。

「音源が動いた」とセレナ。

「機関じゃない。誘導管」

 ロロは直さない。

 音源の管へ印だけ残す。

 証拠を壊さず、先へ行く。

 それは修理工にとって、壊れたまま眠るより難しい選択だった。

 火球区画。

 カイルの前へ、九人ではなく一人ずつの影が出る。

 母。

 父。

 学院生。

 自由港の子供。

 名前を覚えている死者。

 盾を最大へすれば、全部の影を覆える。

「影」とセレナ。

「分かっている」

「なら、出力」

「十二」

「足りない」とハル。

「全部を覆わない」

「どれを」

「今、実在する人」

 カイルは横にいる住民二人へ盾を張る。

 影は炎に包まれる。

 顔が歪む。

 守らなかった名前を後で覚える恐怖。

「影を守らないのは、見捨てることじゃない」とエリア。

「分かっている」

「二度言った」とハル。

「自分へ確認した!」

 カイルは前へ進む。

 王盾炎は十二。

 肋部の痛みは三。

 最大ではない。

 必要な範囲だけ。

 欠落証言区画。

 白い欄が、セレナへ問いかける。

 父の失踪にソウジが関与したか。

 ニアが最初の切離しを命じたか。

 アムナの空白記録が施設設計者の証拠か。

 筆を置けば、通路が開く。

「不明」とセレナ。

 通路は開かない。

「仮説でもいいと表示」とハル。

「仮説欄がない」

「じゃあ作る?」

 セレナは白欄の外へ、小さな括弧を描く。

 未確認仮説。

 通路開放の条件へ使わない。

 中へ、三つを書く。

 ソウジの関与、可能性あり。証拠不足。

 ニアの最初の命令、年齢上不可能。

 アムナの空白、登録不能または意図的未記入。設計関与は不明。

 欄を埋めず、欄の種類を増やす。

 通路は開かない。

 ロロが壁の保守爪を見つける。

「こっちは手動」

「手続では開かなかった」とハル。

「施設に認めてもらう必要はない」とセレナ。

 右手首を痛めないよう、住民へ爪を回してもらう。

 名札区画。

 壁一面に、彼らの名。

 ハル。

 エリア。

 カイル。

 ロロ。

 セレナ。

 アムナ。

 ノクスだけ、種別名。

 住民五人は「対象外部者」。

「名前を中央板へ書けば、安全路を作る」と表示。

 アムナの指が炭へ伸びる。

 全員を覚える。

 全員の呼称を正しくする。

 それが彼女の長所であり、過去の失敗だった。

「書かない」と住民の一人。

「配給と医療へ必要かもしれない」

「役割だけでいい」

「後で探せなくなる」

「探してほしい時に渡す」

 アムナは頷く。

「今、覚えていい呼び方は」

「六番目」

「六番目。六番目」

 他の者も、役割や一時呼称だけを選ぶ。

 中央板には本名を書かない。

 人数、負傷、選んだ呼称、記録期限だけ。

 安全路は作られない。

 代わりに、名札を支える釘が一本外れる。

 ノクスが七枚の札の一つを外へ押す。

 裏に、制動板。

 床が開く。

 過去の自分ならしない選択は、奇跡ではなかった。

 誰かへ聞く。

 できないと言う。

 未完成で渡す。

 最大にしない。

 不明を残す。

 覚えない許可を取る。

 どれも小さい。

 小さいから、過去の事件台帳に「英雄的行動」として残らなかった。

 残らなかったから、予測型は学べなかった。

 縦穴の底。

 巨大な円形炉。

 赤い紙片が、火ではなく風で回っている。

 橋、塔、機関、盾、証拠、檻、井戸。

 七つの標準環境へ、歯車と細管が伸びる。

 中央の黒板。

 死亡記録炉。

 対象群の標準行動を選択中。

 下へ、彼らの名。

 アムナだけ空白。

「着いた」とハル。

「一人で?」エリア。

 ハルは周囲を見る。

 六人。

 一頭。

 五人。

「みんなで」

 炉の向こうで、七枚の扉が閉じている。

 八室迷宮の中枢には、七つしかなかった。

 炉へ着いても、すぐ近づかなかった。

 ハルは赤い紙片を見て、走りたくなる。

 自分たちの死に方が回っている。

 止めればいい。

 焼けばいい。

 その衝動を、まず言う。

「俺、今すぐ中央を蹴りたい」

「却下」とロロ。

「言っただけ!」

「言わないと、お前は言う前に蹴る」

「信用が負の方向に厚い!」

「長期実績」とセレナ。

 エリアは炉の周囲へ、完成しない円を描く。

「入口七。出口七。戻り管は一。中央へ近づく路は、まだ描かない」

「描けない?」

「描かない。誰が入るか決めていないから」

 カイルは五人の住民へ問う。

「ここから先、危険が増える。戻る選択は残っている」

「炉を見たい」と一人。

「記録を取り戻したい」と一人。

「外で待つ」と二人。

「入口を守る」と一人。

「決められない」と一人。

「決められない、も残す」とアムナ。

 住民は、同じ事件の被害者でも同じ目的を持たない。

 それを一つの「民意」へ丸めないことが、カイルの仕事になった。

 セレナが炉の紙片を遠目に読む。

「書式は第五章で確認したものと同じ。ただし、更新欄が増えている」

「何を更新」とハル。

「私たちが今したこと」

 赤い紙へ文字。

 対象ハル、先頭を辞退。

 対象エリア、地図を未完成で共有。

 対象カイル、防御範囲を限定。

 対象ロロ、故障を未修理で保全。

 対象セレナ、不明欄を新設。

 対象アムナ、名前の集約を拒否。

「もう学ばれた」とカイル。

「でも、結果までない」とロロ。

「誰へ渡したかも薄い」とアムナ。

 紙は個人ごとに書かれている。

 ハルが待った。

 誰と待ったかはない。

 エリアが地図を渡した。

 誰が線を足したかはない。

 カイルが盾を分けた。

 住民がどの痛みを申告したかはない。

 予測型は、人と人の間に生じた手順を、個人の新しい癖へ戻そうとしている。

「なら、次は個人の癖にされる前に、毎回相手を変える」とハル。

「相手を道具にしない」とエリア。

「分かってる。誰へ渡すかも本人と決める」

「期限」とセレナ。

「炉を止めるまで」

「撤退条件」とカイル。

「紙が燃え始めたら、記録保全を優先して外へ。住民が一人でも戻ると言ったら、戻り班を出す。アムナが名前を混同したら、中央へ入れない。俺の肩が四、エリアの呼吸が三、ロロの喘息が三、カイルの肋部が四、セレナの手首が三なら交代」

「ノクスは」とロロ。

「本人判断」

「便利な条項!」

「人間にも必要かも」とアムナ。

 七つの扉は閉じている。

 八つ目は見えない。

 その前で、彼らは真相より先に、止め方の条件を決めた。

 死を避けるだけなら、炉から逃げればよい。

 死の記録を次の人へ使わせないためには、仕組みを残して止めなければならない。

 ハルは一人で中枢へ飛び込まない。

「ロロ。どう止める」

「まず、壊さず見る」

「セレナ。何を残す」

「入力、修正履歴、命令先、被害者の選択」

「エリア。どう入る」

「全員が同じ道を使わない」

「カイル。誰を守る」

「守られ方を選んだ人」

「アムナ。何を覚える」

「覚えていいと言われた範囲」

「ノクス」

「ナ」

「本人判断」

 六人と一頭、そして残る住民たちは、死亡記録炉を見た。

 誰も「任せろ」とは言わなかった。

 それが、過去の彼らならしなかった最初の作戦だった。

 作戦開始の前に、セレナは一枚の紙を回した。

 目的。

 死亡記録炉を停止し、命令接続を切る。

 目的ではないもの。

 全記録の焼却。

 設計者の断定。

 ハルの過去の解明。

 アムナの空白の意味の確定。

「やらないことまで書く」とハル。

「危機では、目の前の発見を全部解こうとするからです」

 役割。

 ハル、橋梁軸の開始動作。単独跳躍禁止。

 エリア、複数経路と退路。完成図の単独保持禁止。

 ロロ、機構接続。最終停止の単独判断禁止。

 カイル、防御可能範囲の申告。最大出力は共同確認。

 セレナ、証拠順位と中止条件。未知欄を埋めない。

 アムナ、停止輪への手動接近。名前と記録範囲を集約しない。

 ノクス、本人判断。

「俺だけ便利」とノクスの代わりにハル。

「ナ」

「本人は不満かも」とアムナ。

 期限。

 二十三分。

 酸素残量一時間以下で中止。

 負傷値のいずれかが四で交代。

 住民が撤退を求めた場合、護送を先にする。

 紙の最後。

 この手順は当作戦に限る。

 次の危機へ自動適用しない。

「毎回作るの、面倒」とロロ。

「面倒だから、昨日の正解を今日へ押し付けたくなる」とカイル。

「王子が分かってきた」ハル。

「上から採点するな!」

 全員が署名しない。

 署名の代わりに、自分の役割と中止条件だけを読み上げる。

 同意しない部分はその場で直す。

 黒板は、作戦責任者の欄を探す。

 空白。

 共同責任と書けば、誰も責任を取らない形式に見える。

 代表者名を書けば、その人の死へ戻る。

 セレナは欄外へ記す。

 各工程の決定者を個別記録。

 全体の最終所有者なし。

「持ち主のいない作戦」とハル。

「参加者のいる作戦」とアムナ。

 死亡記録炉へ向かう前に、彼らは作戦そのものへ空席を一つ作った。