第775話 第四章「民衆の証言」前編
料理帳は、王の死因を書かない。
戦争の開戦日も、軍の配置も、条約の署名者も書かない。
代わりに、粉が半袋しか届かなかった日を残す。
火を小さくした理由を残す。
八人分の鍋へ七人分の塩しか入れなかった工夫を残す。
国家の記録は、人がなぜ死んだかを書く。
生活の記録は、それでも誰が食べたかを書く。
どちらが高い証言か、という問いは間違っている。
王の命令を知りたい者が料理帳だけを読めば、戦争を見失う。
配給の実態を知りたい者が王の演説だけを読めば、人間を見失う。
史料の格は、紙の値段では決まらない。
その記録が、何を見られる位置にいたかで決まる。
【砕けた歴史都市/民衆版・八皿街/覚醒/兵士版撤収から三十三分】
八皿街は、匂いから始まった。
焦げた麦。
乾いた魚。
薬草。
鉄。
古い雨。
アムナには、最後の一つが分からない。
「甘い」とハル。
「砂糖?」
「違う。煮た林檎みたいな」
「終端環にない」
「地球ではある」
「記録する?」
「匂いを?」
「あなたがそう感じたこと」
「林檎そのものじゃなく?」
「うん」
アムナは紙へ書く。
『ハルは甘い煮林檎に似た匂いと表現。物質同定ではない』
「急に証拠らしい」
「セレナに怒られない書き方」
「私を基準へしないでください」と後ろから声。
「聞こえてた」
「記録者は、本人がいない場でも基準にされます」
「王みたい」とハル。
セレナが止まる。
「撤回します」とアムナ。
「比較の範囲を限定すれば、不要です。権限が不在時まで作用する点は似ています」
「認めた」
「限定して」
「言葉の王冠を外した」とカイル。
「あなたは黙って」
「王家の出番が減った!」
民衆版には、英雄像がない。
代わりに、扉が多い。
家ごとに幅が違う。
荷車用。
子供用。
腰を曲げなければ入れない避難穴。
街路は真っ直ぐではない。
戦時に壁を足し、台所をつなぎ、隣家へ抜ける穴を開けた結果、家の中と外が何度も入れ替わっている。
「地図が、生活に負ける」とエリア。
「嫌?」ハル。
「面白い」
「顔が怖い」
「面白い時ほど集中する」
「恋を表計算に負けさせた人が、路地には勝つ気」カイル。
「あなたの恋はまだ申請されていない」
「申請制!」
「公開範囲を選んで」アムナ。
「恋愛まで記録制度へ入った!」
ノクスが、一軒の共同炊事場で止まる。
床に七枚の皿。
一枚分の輪染み。
帰り皿。
第一章の市場と同じである。
ただし、ここには料理帳が残っていた。
木板に煤で書かれた献立。
『灰麦粥、八椀。
魚皮、七切れ。
塩、七つまみ。
白い子の椀は、湯と塩だけ。
呼んで返事がなければ、二度目を呼ぶ。
二度目にも返らなければ、椀を重ねない』
「白い子」とハル。
「髪とは限らない」とセレナ。「服、病色、役名」
「子供ではある?」
「古語の『子』は、年少者と徒弟を含む」
アムナは最後の二行を知っている。
知らないはずだった。
口が先に動く。
「返らない椀を重ねると、帰る場所がなくなる」
全員が見る。
「続き?」セレナ。
「家で言われた」
「誰から」
「ウル。ウルの前の渡し手。その前も」
索管の向こうで、老女が息を整える。
『そこは私が答える』
「呼吸」とセレナ。
『二。薬は使った。声は三分』
「二分」
『三分』
「二分半」
『星律官が値切るのは珍しい』
「安全交渉です」
『二分半』
ウルは歌う。
声は細い。
旋律も広くない。
子守歌というより、鍋の蓋を開ける順を覚える作業歌だった。
『最初の名は、火へ。
二度目の名は、戸へ。
返る者には皿を。
返らぬ者には、空きを。
アを忘れるな。
ザを一人へ置くな。
ルを閉じるな』
歌が終わる。
アムナの喉が冷える。
「三つ」
『何が』
「ア。ザ。ル」
『そう聞こえる』
「名前?」
『私が教わった時は、意味のない三つの音だった』
「なぜ分けた」セレナ。
『一人が全部を覚えると、その一人が消された時に終わる。皿を持つ家、道を結ぶ家、灯を守る家へ一音ずつ。記録を各地へ分けて守る仕組み〈メモリー・アイルズ〉の、貧乏な真似だよ』
「家系が守った」とハル。
『守ったと威張るな。意味を失った。誰の呼び名かも、本人が望むかも知らず、音だけ回した』
「それでも残った」とアムナ。
『残したことが善いとは限らない』
「名前を残せば、追える」
『追える』
「固定できる」
『できる』
「消えられなくする」
『そうなることもある』
アムナは、自分の左手を見る。
名前を二度呼ぶ。
失わないため。
その習慣が、誰かを千年同じ場所へ留める鎖だった可能性。
「私たちが、アザルを固定した?」
ウルはすぐ答えない。
『分からない。だから、名前を守った家だから正しい、と話を終えるな』
「じゃあ、何をした」
『音を渡した。それ以上でも以下でもない。続きを持っておいき』
呼吸が三へ上がる。
セレナが会話を切る。
「休止」
『今のは私が決めるところだよ』
「あなたの事前同意した停止条件です」
『覚えていたね』
「記録しました」
索管が静かになる。
八皿街の家々には、扉の横へ結び縄が下がっていた。
一本。
二本。
三本。
家族の人数ではない。
「煙の中で、誰が戻っていないか数える縄」とアムナ。
「知ってる?」ハル。
「白峡谷にもある。今は板持ちが倉庫で使う」
輪を一つ解くと、帰宅。
締めたままなら外出。
輪を横へ倒すと、本人が戻らない選択をした。
「戻らない選択まで」とカイル。
「避難所を変える人。別の家へ住む人。死んだ人と同じ結びにしないため」
「死者は」
「端を焼く」
「消さない?」
「触れば分かる」
アムナは、一軒目の縄へ触れない。
見るだけ。
八つの輪。
七つは解かれている。
一つは横へ倒れている。
「戻らなかった」とハル。
「戻らないと選んだ印」とアムナ。
「本人が結んだかは」とセレナ。
「不明。家族が代理した可能性」
「代理条件を探します」
二軒目。
壁へ、八人分の背丈線。
七本は年ごとに伸びる。
一本だけ、最初から高い位置にある。
「白い子は子供じゃない?」ハル。
「徒弟の『子』なら、十代後半も含む」とセレナ。
「背丈、百七十八前後」とエリア。
「アザルの今の身長に近い?」
「千年前と今が同じなら。器化後に伸びた可能性もある」
背丈線の横へ、同じ文字を二度。
最初は薄い。
二度目は濃い。
「一度目で返事がなければ、二度呼ぶ」とアムナ。
「どうして二度で止める?」ハル。
「三度目は追跡の呼びかけになる、と教わった」
「呼ぶ回数で意味が変わる?」
「一度目は確認。二度目は帰路。三度目は命令」
「誰が決めた」
アムナは答えられない。
家の教え。
意味を失った規則。
「今の私は、三度目も本人が望めば呼ぶ」
「変えた?」
「教えを守るより、いる人へ聞く」
ネイが後ろから言う。
「私は二度まで。三度目は嫌」
「今日のネイは、二度まで」とアムナ。
「明日は」
「明日聞く」
古い習慣を尊重することは、現代の本人へ同じ規則を強制することではない。
三軒目。
料理壁画。
鍋の周囲へ八つの手。
王の手でも兵の手でもない。
太い指。
細い指。
火傷跡。
木匙を持つ手。
一つだけ、手首の先が白く塗りつぶされている。
「消した?」ハル。
「最初から白い顔料」とセレナ。「下層に別色なし」
「白い子」
「肌、袖、包帯、象徴。決めない」
壁画の下へ献立。
『王の盾が上がる日は、火を弱く。
兵の鐘が三度なら、鍋を床へ。
竜の声が止まれば、皿を伏せる。
白い子が眠れば、塩を半分』
「病人食」とカイル。
「味覚がない相手へ、塩を減らした?」
「腎機能、脱水、配給不足もある」とセレナ。
「医学的に一つへしない」
「ただし、同じ人物が継続して特別食を受けた可能性」
四軒目。
貸し借り帳。
名前の代わりに道具絵。
針。
布。
小瓶。
白い外套。
返却欄だけ、空白。
「借りたまま?」ロロ。
「返せなかった?」ハル。
「所有権移転かもしれません」とセレナ。
「返却不能を、盗難と書かない帳面」とアムナ。
ミラの契約帳なら、利息が付く。
ここでは、返らない物を責めず、次に必要な人へ渡す欄がある。
「民衆は、約束を全部美徳にしてない」とハル。
「返せない時の扱いを書いてる」アムナ。
「アザルの案に近い?」
「まだ、本人の案を詳しく知らない」
「先に似せない」
「うん」
五軒目。
子供の遊び歌。
床へ七つの石。
一つを外へ置く。
ノクスが止まる。
同じ形。
本人は石を嗅がず、前脚で一つをさらに遠くへ押す。
「嫌?」ハル。
尾を一度。
「外へ置かれることが?」
返事なし。
「並べるのを止める?」
ノクスが七個全部を崩す。
「止める」アムナ。
ハルは石を戻さない。
古い遊びが、今の夜獣へ意味を強制しないように。
六軒目。
壁に、名前を分ける三つの棚。
左へ「ア」。
中央へ「ザ」。
右へ「ル」。
現物ではなく、後世の刻み。
年代は千年前より新しい。
「家系が戻ってきて刻んだ?」セレナ。
「白峡谷へ移る前」とウルの声。「私の祖母の祖母が、街の外壁へ一度来たと伝わる」
「その人の名」とアムナ。
『伝わっていない』
「なぜ」
『自分の名まで書けば、三音の持ち主と同じ名簿へ入れられると恐れた』
「追跡」
『王家も軍も、消した名が残っていると知れば探す。だから、呼び名だけ置き、自分は置かなかった』
「善いこと?」
『さあ。家族へ危険を残したとも言える』
「ウルは、続けた」
『私の代で止めようとした。忘れれば楽だと思った』
「止めなかった」
『アムナが、小さい時に三音を勝手に歌った』
「私?」
『蜂蜜茶をこぼした日だよ』
アムナは覚えていない。
「私が選んだことにしないで」
『しない。子供の口から出た音を、大人の同意に変えない』
ウルの返事は速い。
それは、何年も考えてきた答えだった。
「じゃあ、なぜ続けた」
『私が選んだ。おまえのせいにはしない』
アムナは息を吐く。
家系の責任を、十五歳の自分へ遡って背負わせない。
記録の継承は、血の命令ではない。
各世代が、続けるか止めるかを選ぶ仕事である。
七軒目。
扉がない。
焼けた柱と、空の食卓。
皿は八枚ある。
今度は一枚も消えていない。
「全部そろってる」とハル。
「後世の復元?」セレナ。
皿底の年代が違う。
七枚は千年前。
一枚は四百年前。
後の誰かが、欠けた皿を作って足した。
底へ文字。
『戻らない者の皿を、勝手に満たさない。
ただし、席があったことは消さない』
「空席」とカイル。
「誰かが空けておく参加枠〈オープン・シート〉とは違う」とセレナ。「これは特定の不在を示す可能性」
「同じ空っぽでも、意味が違う」とハル。
「だから名前が要る?」
「名前だけでも足りない」アムナ。
席。
期限。
戻らない選択。
誰が皿を置くか。
空白は、何もない場所ではない。
何を入れないか決めた結果である。