第786話 第九章「低すぎる机」後編
左の小箱には、細い木札が四枚あった。
一枚目。
『きょう、いた』
二枚目。
『きょう、こなかった』
三枚目。
『くるといった』
四枚目。
文字なし。
「出席札?」ハル。
「待った日を数えた?」アムナ。
「年代」とセレナ。
木の乾燥は同じではない。
一枚目と二枚目は千年前。
三枚目は八年前に近い。
四枚目は、その後。
「同じ箱へ、千年後に追加された」とロロ。
「三枚目を書いたのは」
「ひらがな。筆圧、幼児。ハルの可能性」
「『くるといった』って、自分で?」
「誰かに読んでもらうためか、自分へ言い聞かせるためか」
四枚目は、何も書かれていない。
だが、縁に黒い指跡がある。
書かなかった。
書けなかった。
書く前に止めた。
無記入にも三つの物語がある。
「アムナ」ハル。
「何」
「これを記録したら、待ってたことが約束になる?」
「待った事実は、相手を拘束する権利にならない」
「千年待ったら」
「千年ぶん苦しい。千年ぶん命令が強くなるわけじゃない」
「でも、忘れた俺は」
「忘れさせられた。忘れていた間の責任は、誰が何をしたか分ける」
「俺が言ったことは消えない」
「消さない。だから今のあなたが、続けるか止めるか言う」
「記録する人って、答えを持ってるように見える」
「持ってない。持っているふりをすると、書いた順に人を並べられる」
アムナは木札の写しへ、四つ目の空欄も同じ大きさで描く。
『文字なし』と書かない。
文字がない場所に、文字がないと書けば、空白を自分の文で埋めることになる。
枠だけ。
発見時刻だけ。
表面の黒い指跡だけ。
「空白を写すって、何も書かないこと?」ハル。
「何も書かない理由を書くこと」
「書いてる」
「だから難しい」
机の右脚には、三本の細い溝があった。
一つ目は、入口。
二つ目は、中央の円傷。
三つ目は、出口へ向かい、途中で切れる。
エリアが外から紙帯を差す。
「路線図」
「子供の落書きじゃなく?」
「直線の幅が一定。角度も、部屋の三経路と一致」
「三経路?」
「入ってきた扉。机の下の保守孔。壁の向こうの……不明」
机の左脚には、同じ三本。
ただし、出口線がない。
「片方だけ帰路を描かれてる」とハル。
「戦時改造か、元からの役割差か」セレナ。
右席の底へ、後から削った文字。
『案内』
左席。
『中央』
「人じゃなく役」とアムナ。
「俺は案内。アザルは中央」
「八年前は、その割当て」
「千年前も?」
「文字層が違う。『中央』は千年前。『案内』は八年前」
「俺が来るまで、向かいの席には役名がなかった」
「空席だった可能性」
誰かが空けておく参加枠〈オープン・シート〉。
空席は、誰でも座ってよい席ではない。
座る者が、自分で参加を選べるよう空けておく席である。
だがソウジは、七歳のハルへ「迷路遊び」とだけ伝えた。
選ぶための席へ、選ぶ情報を渡さず座らせた。
「方位具を入れる」とハル。
今度は、思いつきではない。
机だけで得た観測を、先に固定した。
円傷。
二種の文字。
赤糸の経路。
案内席。
出欠札。
「目的」とセレナ。
「円傷と方位具の位置関係。隠れた手順があるか。記憶を戻すためだけじゃない」
「開封条件」
「三鍵。俺は途中停止を持つ。アムナも停止を持つ。再封印可能。磁性物は外」
「部屋へ持ち込む者」
「俺じゃない。外から箱ごと、カイルとロロが板へ載せる。俺は受け取らない」
「理由」
「手に持った感触を、昔の記憶と勘違いしない」
セレナは一拍置く。
「採用」
三鍵箱を、低い扉へ通す。
ハルが第三鍵を持つ。
回さない権利も持つ。
「開ける?」アムナ。
ハルは机を見る。
白い手を見たくて仕方がない。
「開ける。目的を越えたら止める」
三つの鍵が、別々の手で回る。
方位具は木枠ごと机の円傷へ置かれる。
ぴたりと合う。
針は北を指さない。
回りもしない。
代わりに、瓶蓋の裏へ隠れていた小さな突起が、天板の凹みへ入る。
机の内部で、先ほどの金属片が鳴る。
かち。
天板の八本線のうち、一本だけが沈む。
「どれ」とエリア。
「『知らない空』へ向いた線」
机の縁から、細い紙帯が出てくる。
子供の文字。
『こっちがいやなら、まわしていい』
もう一行。
『ぼくがいやと言えない時は、きいて』
筆跡が違う。
一行目は幼いハル。
二行目は古星語を日本語へ真似た、不自然なひらがな。
「二人で作った手順」とアムナ。
「玩具じゃなく、選び直す合図」ハル。
「八年前の追加。千年前の机へ、子供二人が自分たちの退室条件を書いた」セレナ。
「守られた?」
誰も答えない。
赤糸は一人分しか扉へ届いていない。
ハルだけが帰った。
アザルは残った。
方位具を使えば、帰る方向を選べる。
だが、選べる者が一人だけなら、その道具は二人を平等にはしない。
「俺は回した」とハル。
「記憶?」
「指が知ってる。何度も。出た方向が嫌で、回し直した」
「何を選んだ」
「……分からない」
「分からないを残す」アムナ。
「うん」
方位具を再び箱へ戻す。
三鍵を閉じる。
完全な記憶を欲しがるほど、物証を先に片付ける。
それが、今のハルが七歳の自分へ渡せる最初の手伝いだった。
箱を閉じた後、机の内部で、沈んだ一本線だけが戻らなかった。
「機構、継続中」とロロ。
「止める?」ハル。
「まず状態。歯車音一。圧板変化なし。床傾斜ゼロ」
エリアが外から三本目の紙帯を差し直す。
机脚の「壁の向こうへ続く線」。
紙帯は途中で止まらない。
壁の隙間へ吸い込まれ、別の場所から先端だけ戻る。
「環になってる」とエリア。
「出口じゃない?」
「往復路。物は通らない幅。音か、糸」
アムナが机の側面へ耳を当てない。
小さな聴診板を置く。
遠い音。
七つの室から、別々の生活音が来る。
王冠を磨く布。
命令筒の封蝋。
鍋の蓋。
工具の返却札。
七心核。
配給袋。
星位針。
「第八室から、全部を聞かせた」とハル。
「監視室?」
「調整室かも」とロロ。
「七つの困りごとを、一人が聞く部屋」アムナ。
音の一つが大きくなる。
『戻れない』
王家の声。
別の声。
『命令が違う』
軍。
『子が帰らない』
民衆。
『心が合わない』
竜守。
『圧が上がる』
機関士。
『足りない』
物資。
『道が消えた』
航図。
七つの問題が、一人の耳へ同時に入る。
「これを毎日?」ハル。
「再演音。頻度は不明」セレナ。
「でも、装置は同時に聞かせる設計」
「原設計か戦時改造か見る」ロロ。
音管の留め具。
七本のうち四本は古い。
三本は戦時追加。
「最初から四つは聞いてた」とカイル。
「王家、民衆、機関、航図」とエリア。「調整に必要な情報」
「後から軍、竜守、物資を追加」
「仕事を増やした」ハル。
「仕事だけじゃない」とアムナ。「苦しい声を増やした」
聞くことは、支配ではない。
聞かないことも、自由ではない。
七つの救難を一人へ聞かせ、全てへ答えろと言えば、聴取は拘束になる。
「返事の管は」とハル。
ロロが机下を探る。
一本。
「七つから来て、一つで返す」
「一人が全員へ同じ答え」
「昔の中央集権の縮図」とカイル。
「アザルが設計した?」
「原型四管は、複数の返答札を差せる。戦時改造で一本へまとめられてる」ロロ。
「また改造」
「最初から悪い机じゃない」
「最初から良いとも言わない」とセレナ。「四つの声を子供へ集めた理由が不明」
返事管の入口へ、小さな木片が詰まっている。
抜かない。
鏡で見る。
表。
『いまは、わからない』
裏。
『あとで、きく』
二枚を重ね、向きを変えて返す札。
「保留札」とアムナ。
「子供が全てへ答えなくていい手順」とハル。
「戦時には」
札の横へ、赤い塗料。
『使用禁止。中央対象は即答』
ハルの右手が机を叩きかける。
止める。
「即答しろって言われてた」
「本人が迷う時間を消した」とアムナ。
「千年待った人に、最初は待つ時間を与えなかった」
言葉の皮肉ではない。
アザルは今、他者へ答えを急がせる。
過去に自分が急がされたことが、現在の加害を正当化はしない。
だが、なぜ彼が保留を信じないか、その形は見える。
「札を持ち出す?」ハル。
「原物は詰まったまま。位置と両面を写す」とセレナ。
「使える?」
「今、使う?」アムナ。
ハルは返事管へ、写しの札を向ける。
『いまは、わからない』
七つの声が一瞬だけ静かになる。
装置が命令へ従ったのではない。
古い音溝が、保留札の幅で物理的に塞がれた。
それでも静けさは、子供二人が一度だけ持てた休みの形を再現した。
「あとで聞く」とハル。
「いつ」アムナ。
「この部屋を出て、身体を確認して、証拠を分けてから」
「期限になった」
「うん」
保留は、永遠に逃げる言葉ではない。
次に聞く条件を決めれば、考える時間になる。
その瞬間、机の奥で戦時赤札が割れた。
止められていた歯車が動き、部屋全体の重さが片側へ移る。
部屋が傾く。
一度。
二度。
床傾斜四度。
「撤退準備」とエリア。
「あと一箇所」とアムナ。
「何」
机の下へ、赤い糸が挟まっている。
方位具と同じ糸。
糸は、座板の一方から扉へ伸びる。
もう一方には届かない。
「ハルだけ帰れた」とアムナ。
「アザルは?」
「この部屋から出た痕がない」
ハルの記憶が、机の高さへ身体を合わせる。
膝。
赤い糸。
白い少年。
少年は、塩だけの湯を飲んでいた。
飲んでも味がしないと言った。
『帰るの?』
『お父さんが呼んでる』
『君は、呼ばれたら帰れる』
『アザルも来ればいいじゃん』
『行けない』
『なんで』
『ぼくが出ると、みんなの約束が壊れる』
幼いハルには意味が分からない。
『じゃあ、待ってて』
白い少年は、黒い瞳で見る。
『待つ期限は』
『すぐ』
『すぐは、何日』
『わかんない』
『誰が撤回できる』
『てっかいって何』
記憶の中のアザルは、少しだけ笑った。
千年生きた王ではない。
質問が多い、白い兄ちゃん。
『じゃあ、言い直して』
『また迎えに来る』
『必ず?』
幼いハルは、迷う。
母から、できない約束をするなと言われていた。
『必ずは、わかんない。でも、来たい』
『来たい』
『うん』
『それなら、記録しない』
白い手が、ハルの額へ触れる。
黒い砂。
記憶が切れる。
現在のハルが、低い机へ両手を置く。
「思い出した」
「内容」とセレナ。
声が出ない。
アムナが代わりに名前を呼ばない。
待つ。
ハルは自分で言う。
「俺、また迎えに来るって言った」
部屋の外で、誰かの靴が一度止まった。
仲間ではない。
左足と右足で、重さが違う歩き方。
星晶義手を持つ男の歩調だった。