第823話 第四章「七拍の鐘と無札桟橋」前編
規則は署名を待たず、契約は署名できる者しか守らない。
空が回り始めた時、学院と自由港は、互いが長く見落としてきた者を同じ朝に数えることになった。
【冠都環ルーメン/王立星航学院・外壁救難棟/空の回転開始から十九分】
「第一条。現在の指揮権は七拍で終了する」
ティア・グランツの声は、回転する外壁の風へ負けなかった。
低く、一定。
銀灰の髪は白い外套と一緒に横へ引かれている。
右膝へ固定帯。
左手に手動鐘。
右手には、規則を書いた薄板。
「第二条。終了前に次の指揮者を指定しない」
救難生たちが顔を上げる。
「指定しない?」オルト・グレン。
「指揮者本人による後継指定は、権限延長と同じです」
「では誰が」
「現場班が、次の七拍に必要な役割を選ぶ」
「選出中に壁が落ちる」
「一拍の空白を置きます」
「一拍で落ちる壁もある」
「あります」
ティアは、そこを否定しない。
学院の外壁救難棟は、いま空に対して横向きだった。
石造りの訓練塔が九十度倒れたのではない。
空の重力面が回り、塔の壁が地面になった。
次の回転まで五十七秒。
壁面へ避難した生徒二百十三名。
そのうち補助装具使用者十九。
吸入器が必要な者七。
文字掲示を読めない者十一。
点呼へ答えられない者四。
非常規則は、最初の一分でティアへ全権を与えた。
終わりは書かれていなかった。
空が戻るまで。
危機が終わるまで。
全員が安全になるまで。
どれも、命令者が「まだ危険」と言えば終わらない。
「第三条」とティア。「私の右膝が動かなくなっても、権限は延長しない」
「そこを条文に入れる必要あります?」マオ・ケルン。
「私が傷を理由に交代を拒む可能性があります」
「自覚あるんですね」
「あります」
「自覚がある人の自覚を、信用していいんですか」
「信用しないための条文です」
マオは左股関節の装具を締め直した。
硬く高い声。
泣きそうな時ほど丁寧語になる少女だが、今は丁寧語ではない。
「先に聞け。七拍後の指揮者候補、誰の便利?」
「現場班の」
「現場班って、走れる人だけ?」
「違う」
「じゃあ椅子の高さ、文字の大きさ、痛み止め、吸入器、全部入れて」
「入れます」
「今、入れる。後でじゃない」
ティアは薄板の第三条を消した。
「第四条へ繰り下げます。第三条。指揮役選出には、移動、感覚、言語、年齢の異なる当事者を一名以上含む」
「一名で代表にしない」
「含む。代表とは書いていません」
「よし」
「賛成?」
「今は、反対しない」
「記録します」
「それ、賛成に数えたら装具で殴る」
「沈黙と保留を賛成へ数えません」
ティアは鐘を鳴らした。
一拍。
「現在の指揮、開始」
外壁が軋む。
二拍。
オルトが担架班へ短い号令を出す。
「復唱。北桁へ三。補助帯二。走らない」
三拍。
マオが低い重心で壁面を滑る。
足裏の固定術は使えない。
金属装具の爪を石目へ掛け、手で進む。
四拍。
塔の上部から、訓練用の鐘室が外れた。
鐘三基と生徒八名を乗せ、壁面を滑り落ちる。
「鐘室!」誰かが叫ぶ。
「見えている!」ティア。
五拍。
彼女の右膝が抜ける。
白い外套が石へ倒れた。
六拍。
ティアは起き上がろうとする。
マオが怒鳴った。
「権限を怪我で延長するな!」
七拍。
鐘。
ティアの指揮権が終わる。
あと二十メートルで鐘室が避難列へ衝突する。
「次、誰!」オルト。
救難生たちが一瞬、ティアを見る。
前の命令者を見る癖。
終わった権限へ答えを求める癖。
ティアは口を閉じた。
答えない。
次を指定しない。
善意で一言出せば、その一言が八拍目の命令になる。
空白の一拍。
鐘室が近づく。
マオが床――いまは壁――を叩いた。
「低位班! 鐘室の下へ滑り布! 高位班は上から引くな、脚が長い人だけ有利になる!」
オルトが即座に復唱する。
「次指揮、ケルン生。低位班、滑り布。高位班、横索。復唱!」
声が重なる。
マオは自分の権限開始を鐘で数えない。
「鐘!」
ティアが手動鐘を投げる。
右膝は動かない。
投げた手だけは正確だった。
マオが受ける。
一拍。
鐘室の下へ、訓練用の巨大滑り布が広がる。
補助装具のある生徒、背の低い生徒、這って進める生徒が先に布の縁を固定する。
速く走れる者は横索を引く。
二拍。
鐘室が布へ落ちる。
衝撃で三人の手が外れる。
三拍。
マオの左股関節へ痛みが走る。
顔が白くなる。
「痛み!」
「三!」
「薬!」
「まだ!」
「いつ飲んだ!」
「二時間前!」
「隠すな!」
「今それ規則?」
「救難条件!」
四拍。
オルトがマオの腰帯を取る。
助ける前に聞く。
「保持してよいか」
「腰だけ!」
「復唱。腰のみ」
五拍。
鐘室の速度が落ちる。
六拍。
生徒八名が自力で窓から出る。
一人は泣き、一人は笑い、二人は返事ができない。
七拍。
マオの権限が終わる。
鐘室はまだ止まっていない。
次の一拍で、オルトが指揮へ入る。
その時、学院の古い非常規則板が、壁の内側で勝手に開いた。
『現指揮者不在。
自動非常権限を規律監督官代理へ復帰。』
ティアの名。
「戻った」と生徒が言う。
「戻していません」とティア。
「でも規則が」
「規則が、私を戻した」
正確には、非常規則の作成者が、何十年も前から戻していた。
危機が続く限り、最初の適格者へ権限を戻す。
適格者の条件は、爵位、成績、身体能力、規則知識。
影響を受ける者の条件ではない。
ティアは立てないまま、白い外套の内側から規則鉤を抜いた。
非常板の封印線へ差す。
「何を」とオルト。
「私の名前を外します」
「現場で規則改訂は」
「第一条。影響を受ける者は、非常規則の改訂を要求できる」
「まだ採択していない」
「要求です。採択ではない」
マオが鐘を一度鳴らす。
「要求する」
別の生徒が続く。
「要求」
吸入器を持つ生徒。
文字を読めない生徒は、薄板へ丸を刻む。
点呼へ声で答えられない生徒は、二本指を上げる。
全員の賛成ではない。
それでよい。
規則を変えてよいかを、規則の所有者だけへ聞けば変わらない。
ティアは自分の名を外す。
非常板が火花を散らす。
魔法ではない。
古い機械封印が、想定外の空欄を拒んだ。
「空欄は不適格と判定されます!」オルト。
「空欄ではありません」
ティアは、八拍目の欄を作る。
『次指揮者――現場選出。
終了――七拍。
再任――本人以外の要求。
改訂――影響当事者一名以上の発議。
未確認者――賛成に数えない。』
非常板の歯車が止まった。
次の指揮者名を待つ。
ティアの名へ戻らない。
「第一原則」とマオ。
「まだ原則と呼ばないでください」
「名前がないと怒鳴りにくい」
「怒鳴る前提?」
「現場だから」
ティアは右膝を伸ばさず、座ったまま鐘室を見る。
「非常権限には終了時刻を。影響を受ける者には改訂要求を」
「長い」
「短くすると穴ができます」
「じゃあ長いまま怒鳴る」
マオは笑わない。
けれど鐘をティアへ返さない。
次の七拍は、別の生徒が持つ。