第832話 第八章「地図へ置く」後編
空冠布の端がその固定具へ絡み、身体ごと空へ持ち上げる。
「索を切る!」ロロ。
「待って」とニア。「切れば終端布が外輪へ吸われる。空冠返還図が失われる」
「人が落ちる!」
「効果を言った。反対ではない」
「今その文法、腹立つ!」
カイルが手動鐘を取る。
「緊急指揮、私。七拍。救命優先。地図損失は記録」
一拍。
「ハル、索。エリア、布の荷重線。ロロ、切断準備。ニア、範囲監視。セレナ、時刻。アムナ、本人の意思確認」
二拍。
アムナが声をかける。
「呼び名、不要。索を切ってよい?」
小柄な人は答えない。
「沈黙。賛成に数えない」
三拍。
身体がもう一段上がる。
空冠外輪まで七メートル。
「判断不能?」カイル。
「意識あり。目は追う。恐怖で発声不能の可能性」セレナ。
「救命代理、最小範囲」とカイル。「身体を索から外す。行き先は決めない」
四拍。
アムナが三つの動作を見せる。
索を切る手。
固定具だけ外す手。
何もしない手。
小柄な人は左目を一度閉じる。
「どれ」とハル。
「意味を決めない」とアムナ。「事前合図がない」
「じゃあ」
「危険の存在だけ伝える」
アムナは自分の腰索を外し、同じ高さまで一歩出る。
「あと三拍で外輪へ当たる。触れて固定具を外す。拒否なら、右足を二度動かして」
反応なし。
「同意じゃない」とエリア。「限定代理」
五拍。
ハルが走る。
一。
二。
三の前。
「ロロ、俺の腰索頼む!」
「右腰! 左肩へ流すな!」
「エリア、布!」
「どの線」
「今、人を持ってる線!」
「終端布の北縁。あなたから見て左上」
「生活道具!」
「客員席の空き椅子側!」
「分かった!」
六拍。
ハルが空へ跳ぶ。
左肩は使わない。
右腕で小柄な人の腰帯を取り――触れる前に叫ぶ。
「腰、触る!」
返事はない。
拒否動作もない。
限定代理。
右腕で支え、左手は使わず、歯で固定具の補助紐を引く。
七拍。
カイルの指揮が終わる。
固定具は外れない。
布は外輪へ向かう。
「次指揮!」カイル。
全員が一瞬、エリアを見る。
地図の作成者。
八枚の布を最も理解している者。
エリアは左肺を押さえ、言う。
「私は地図担当。指揮はしない」
空白の一拍。
小柄な人が、初めて右足を二度動かした。
拒否。
「何を拒否した!」ロロ。
「直前に示した固定具を外す代理」とアムナ。
「じゃあ触るのも止める?」
「腰保持は別。本人が今、ハルの腕をつかんだ」セレナ。
小柄な人の左手が、赤いマフラーを握っている。
「腰保持は継続希望と推定。確定ではない」
「固定具を外さず、布側を外す!」ロロ。
「地図を失う」とニア。
「本人が拒否した方法を続けるより先!」
次の指揮者は、ロロになった。
「七拍! 俺! 終端布の仮留め全部解放! 地図は失うかもしれない! 人を布ごと船内へ戻す!」
一拍。
エリアが叫ぶ。
「終端布の外縁には空冠の返還条件!」
「覚えてる?」
「全部は」
「誰か記録!」
「三島へ分散済み」とアムナ。「一部欠落」
「欠落は後で描き直す!」
二拍。
ロロが補助腕で一つ目の留めを外す。
三拍。
右手の痺れで二つ目を落とす。
ニアが位置を声で補う。
「半指下。お前の左」
「俺の指基準?」
「ロロの左小指幅」
「姉ちゃん、分かる言い方できるじゃん!」
「学習中」
四拍。
終端布が大きく膨らむ。
ハルと小柄な人が船外へ振られる。
エリアは地図槍を構える。
術は出ない。
槍の柄へ自由港索を巻き、身体を錨にする。
両踵が悲鳴を上げる。
「エリア!」
「私の作業範囲。地図ではなく索」
「交代!」
「あと三拍」
「今の指揮者はロロ!」
「ロロ、継続を」
「二拍だけ! その後カイルへ渡せ!」
「了解!」
自分で延長しない。
五拍。
カイルがエリアの後ろへ入り、左腕で槍柄を支える。
王太子が支えたから権限が戻るのではない。
ただ重さが分かれる。
六拍。
最後の仮留め。
「切る!」ロロ。
小柄な人が首を横へ振る。
「切断拒否?」アムナ。
左手で、自分の右足固定具を示す。
次に終端布。
次に船内。
「布ごと戻す案へ同意、の可能性」とセレナ。
「確認できない!」
小柄な人は布を両手で抱えた。
「本人が保持へ参加」とアムナ。
七拍。
ロロの権限が終わる。
仮留めが外れる。
終端布は空冠へ吸われず、巨大な袋のように折れた。
ハルと小柄な人を包み、自由港索へぶら下がる。
「引く!」カイル。
「今の指揮?」エリア。
「物理作業の共同呼びかけ! 命令ではない!」
「採用!」
全員で索を引く。
小柄な人が甲板へ戻る。
ハルも転がる。
左肩の痛み六。
「触る?」エリア。
「右腕引いて」
「右だけ」
エリアが右手を取る。
ハルは自分で起きる。
小柄な人は固定具を外さなかった。
本人が外したくない理由は、まだ分からない。
アムナが聞く。
「呼び名、必要?」
首を横。
「記録へ、仮番号を付けてよい?」
横。
「人数として一、救命方法への拒否、腰保持、布保持だけ記録してよい?」
一拍待って、縦。
名前は残さない。
救われたことは残す。
固定具を外さなかった判断を、愚かとも感動とも書かない。
「終端布」とロロ。
中央部分が裂けている。
空冠返還条件の三行が読めない。
エリアは顔を歪める。
「悔しい?」ハル。
「悔しい」
「人を優先したから、悔しがっちゃ駄目?」
「違う。人を優先しても、失った地図は失った」
「描き直せる?」
「一部は」
「描けない部分」
「空白にする」
「想像で埋めない?」
「埋めない」
地図より人を選ぶ。
その選択を美談にすれば、次に地図を守ろうとする者を責めることになる。
失った条件が後の事故を起こせば、救命の成功だけでは済まない。
エリアは裂けた箇所へ書く。
『救命のため原図損失。
欠落三行。
再構成禁止。
各地原本から再確認。
確認まで、空冠返還の当該範囲を保留。』
「保留すると、自動接続へ間に合わない」とソウジ。
「間に合わせるため、想像で三行を書けば、また中央の誰かが正解を作る」
「では空冠だけ返せない」
「返せる範囲だけ返す」
「世界は部分実装を受け付けるか」
「受け付けさせる」
エリアの声は強い。
強い声を、全体の賛成へしない。
「この範囲に異議ある人」と彼女。
ソウジが手を上げる。
「ある。時間危険が高い」
「記録」
ニアも。
「ある。空冠の未返還部が機械遅延を起こす」
「記録」
ハルは手を上げない。
「賛成?」セレナ。
「違う。今は異議なし」
「記録」
地図は一つの意思ではない。
反対と、保留と、異議なしが、同じ布の上に別の線で残る。
エリアは八枚を再び並べる。
今度は、人を助けたために裂けた空白ごと、世界地図へ置いた。
【現実/ゼロスター号・空冠外周/自動接続まで零】
白い受容架の自動復帰爪が閉じた。
ソウジの胸へ向かう。
カイルとロロが押さえる。
ニアが荷重を読む。
ノクスが床の振動へ耳を立てる。
零。
爪が、最後の一指を進まない。
「止まった?」ハル。
「違う」とニア。「中央負荷が減って、接続条件が未達」
学院。
自由港。
七群れ。
鏡砂。
雷鎖。
夢灯。
逆潮。
各地で小網が動き始め、中央へ戻る負荷が減った。
自動接続は、時間ではなく負荷で進んでいた。
「あとどれくらい」とソウジ。
「分からない」とニア。
「不明で止めるのか」
「止まっている間に作る」とエリア。
八枚の帆布が、甲板へ並ぶ。
八原則。
衝突箇所。
期限。
保留。
異議。
物理鍵。
費用。
記録。
中央には、誰かが空けておく参加枠〈オープン・シート〉。
エリアは最後の線を描かない。
「地球側」とハル。
「まだ条件を聞けていない」
「母さんへ」
「今は通信路がない」
「じゃあ空白」
「空白へ希望と書かない」
「分かってる」
「帰りたいとは書ける」
「書いていい?」
「あなたの希望として」
ハルは灰色の布へ書く。
『ハル――地球へ帰りたい。
アステリアから消えたくない。
誰かを待たせ続けたくない。
同じ道でなくても、連絡できる往来を作りたい。』
「長い」とエリア。
「短くすると嘘になる」
「採用」
「君は」
エリアは自分の欄へ書かない。
「後で」
「保留?」
「うん」
「次に聞く時刻」
「この地図を置いた後」
ハルは頷く。
エリアがグリムリリーの穂先を、八枚の布の外側へ置く。
魔法は戻っていない。
路図〈ルート・レイ〉は光らない。
それでも、各地から届く打音に合わせ、布の線上へ小さな金属片を置く。
ティアの鐘。
ミラの硬貨。
ガンガの拍。
ユノの鏡縁。
イヴァの切符穴。
ソムナの紙芯。
ニアの三鍵。
アムナの空白札。
七つの外周点が、中央へ線を伸ばさない。
隣の点へ、短い線を渡す。
輪ではない。
切れ目がある。
切れ目ごとに、戻る道がある。
世界の回転が、止まった。
突然だった。
七空域と地球の空が、八方位の位置で静止する。
地球の海は北西。
王都の青空は東。
逆さ海は真上。
夢灯の夜は船尾。
雷雲は船底。
船上の全員が、動かない空を見る。
「成功?」ハル。
「一時停止」とエリア。
「根拠」
「地図の全線へ、まだ実装がない」
次の瞬間、空冠の外輪が悲鳴を上げた。
空は止まった。
機械は、止まる準備をしていなかった。
巨大な回転輪だけが慣性で回り続ける。
七本の中央導路が引きちぎられ、空中へ鞭のように跳ねる。
ゼロスター号の右舷を一本が叩く。
甲板が裂けた。
ロロが叫ぶ。
「理念は止まった! 物理が追いついてねえ!」
「どうする!」ハル。
「法と機関へ落とす!」
「言い方が本当に落下!」
船が傾く。
八枚の地図布が空へ舞い上がる。
エリアは追わない。
「ハル! 地図より人!」
「うん!」
ハルは、目の前の索へ走る。
完成した地図を守るのではない。
地図を描き直せる人間を守る。
世界の回転は一度止まった。
その一度で、理念だけでは世界を支えられないことが、世界規模で証明された。