第834話 第九章「法と機関へ落とす」後編
【現実/ゼロスター号・王権封印台/同時刻】
カイルは、王家の印璽を左手へ持った。
王盾炎はまだ戻らない。
深紅の半マントは裂けている。
右腕の盾型籠手は、ただの重い金属。
「王家の最終救命権」とセレナ。
「王都が崩落する際、王太子または国王は全地域の避難先、物資、軍路、医療優先を上書きできる」
「何度使った」
「歴史上、正式には十三。非公式を含めれば不明」
「成功」
「九」
「失敗」
「数字で分けにくい」
「使った人が英雄になった例」
「十一」
「被害を受けた地域が、後から改訂できた例」
カイルは黙る。
「ゼロ」とセレナ。
「知っている」
「では」
「移す」
「誰へ」
「議会」
「一つの議会なら中央です」
「七地域議会」
「七つが同じ層なら、王家の代わりに多数地域が少数地域を上書きします」
「では当事地域」
「隣接被害が出る」
「外部監査」
「遅れる」
「景気が悪いな!」
カイルは笑う。
笑うと肋部が痛む。
痛み五。
「王子の仕事は、決めることだと思っていた」
「事実として?」セレナ。
「本人認識」
「続けて」
「決めることで、決められない人を守る。迷った顔を見せず、後悔は一人で持つ」
「一人で持った後悔は、制度へ戻りません」
「分かっている」
「王子だから?」
「旅をしたから」
カイルは印璽を封印台へ置く。
「王家の上書き権を、三つへ分ける。
開始――現場二鍵。
継続――影響地域の再同意。
終了――誰でも要求でき、二鍵で成立。
王家は外部監査の一席だけ。
議長権なし。
拒否権なし」
「一席を残す」とハル。
「責任まで捨てたら逃亡だ」
「王位は」
「まだある」
「降りない?」
「降りるかは、この危機と別に決める」
「格好よく全部捨てない」
「捨てた王冠を拾う者まで選べないからな」
「なるほど」
「あと、母上に殺される」
「現実的」
「父上は、たぶん黙って胃を押さえる」
「家族の反応を王権設計へ入れないでください」とセレナ。
「入れてない!」
カイルは左手で印璽を押す。
王家の最終上書き線が、三つへ割れる。
一つは地域。
一つは利用者。
一つは記録・監査。
王家の獅子紋は、三線の外へ小さく残る。
「小さいな」とカイル。
「不満?」
「少し」
「記録してよい?」
「するな!」
「本人発言」
「軽口!」
「軽口と明示」
「残るんだな!」
法と機関がつながった時、アザルの黒い座が割れた。
音は小さかった。
卵の殻へ爪を立てるような音。
その小ささに反して、亀裂から出たものは空冠の天井まで届く。
黒い液体。
煙。
文字。
声。
『必ず帰る』
『一人も置いていかない』
『費用は後で払う』
『君のため』
『危機が終わるまで』
『全員が望んだ』
『記録はない』
『忘れない』
破られた約束は、嘘だけではない。
本気で言った。
言った時は守るつもりだった。
状況が変わった。
連絡しなかった。
撤回を恥じた。
誰かへ代価を押しつけた。
千年分。
アザルの器から、中央へ集められていた破約が溢れ始める。
「下がって」とアザル。
「君は」とハル。
「僕も、分からない」
黒い液体が床を走る。
新しく作った八本の枝へ入ろうとする。
「各地へ流れる!」ロロ。
「分散網が、破約の出口になる」とソウジ。
「分けたら安全じゃなかったの!」ハル。
「負担を消していない」とエリア。「今まで一人にあったものが、各地へ戻ろうとしている」
「戻したら」
「地域ごとの容量を超える」
「じゃあどうする!」
「小さく、期限と変更手続きのある契約へ分ける。今!」
理念と機関はできた。
まだ七天鍵が中央の基幹命令へ縛られている。
鍵を返さなければ、枝はただ中央の汚れを各地へ流す管になる。
アザルが黒い座へ手を置く。
「僕へ戻す」
「駄目」とハル。
「各地が壊れる」
「君も壊れる」
「知っている」
「知って同意したら、何でも許されると思うな!」
「では、止めて」
アザルの声が、初めて命令に近くなる。
「僕を止める案を、今すぐ実装して」
黒い破約が、七本の枝を登る。
各地の航路札が一斉に警報を鳴らす。
学院の鐘。
自由港の硬貨。
七群れの太鼓。
鏡砂の弦。
雷鎖の鋏。
夢灯の紙芯。
逆潮の工具。
終端の無音。
セレナが記録板へ書く。
『真相――世界に一人の犠牲が必要なのではない。
現行制度が、負担を一人へ集めるよう作られている。
分散網だけでは解決しない。
各地が負担、権限、期限、異議を引き受ける実装が必要。』
「七天鍵を返す」とエリア。
「今」とロロ。
「中央の指示で?」ハル。
エリアは首を振る。
「各地が、自分の鍵を自分の条件で返す」
空冠の外で、止まっていた八つの空が震える。
黒い破約が、世界へ溢れ始めた。