〇が一つ多い利用者
企業系ベンチャーキャピタルの投資委員会で、宇津木崎真帆は資料を配る手を止めた。入社一年目のアナリスト補助。発言権はないが、健康管理アプリ「ミモザ」の利用者監査を任されていた。
投資額は五十億円。創業者の伊庭は、月間有料利用者八万二千四百人を最大の根拠に挙げた。投資契約書にも「八二、四〇〇」と太字で印刷され、監査法人の確認印がある。
真帆は一枚の請求書を机に置いた。本人確認SMSの送信数は八千二百四十通。ミモザでは月初に全有料利用者へ一度、認証番号を送る仕組みだった。
「無料利用者へは送らない仕様ですか」
委員長が尋ねた。
伊庭は頷き、海外利用者は別経路だと答えた。だが海外提供はまだ始まっていない。真帆は送信APIの集計画面を投影した。件数は8,240。投資資料の作成者が、その数字を表計算へ転記した午後十一時十三分、末尾へゼロが一つ加えられている。
伊庭は表示上の丸めだと言った。
「成長率を見れば些細な差だ」
「十倍は丸めではありません」
真帆は監査法人の確認書も拡大した。確認対象欄には「登録ID数」とあり、有料利用者数ではない。退会済みやテスト用を含めても八万二千四百には届かない。しかも確認印の横の時刻は、API集計が終わる二時間前だった。
上司から端末に「黙れ。案件が飛ぶ」と届いた。真帆は画面を伏せ、SMS会社の電子署名付き明細を委員全員へ回した。
伊庭は低い声で言った。
「若い人は、ゼロから会社を育てる苦労を知らない」
真帆は八桁の投資額と、四桁の利用者数を見比べた。
「だから、ないゼロを育てたことにはできません」
真帆は決済代行会社の月次明細も開いた。継続課金中のIDは八千百九十六件で、法人テスト用四十四件を加えるとSMS送信数と一致する。偶然ではなく、八千二百四十が実利用者の上限だった。委員の一人が、資料の「成長率九百二十パーセント」も同じゼロから作られたのかと尋ねると、伊庭は答えなかった。
委員長が五十億円の承認印を朱肉の手前で止めた。契約書の利用者だけが、八万二千四百人のまま取り残された。