「大丈夫」のあとに句点
樋渡公晴に名古屋転勤の話が出た夜、室見梢子は洗濯物を畳んでいた。
「三年だって。梢子には今の仕事があるし、ついてきてとは言えない」
「うん。一人でも大丈夫」
梢子が言いたかったのは、単身赴任でも大丈夫、離れていても続けられる、ということだった。
公晴が受け取ったのは、あなたがいなくても大丈夫、だった。
「分かった」
彼はそう答えた。
公晴が言いたかったのは、遠距離を受け入れる、ということだった。
梢子が受け取ったのは、別れても構わない、だった。
翌週、公晴は名古屋の部屋を決めた。
梢子は今の部屋を一人で借り続けるには広すぎると思い、会社の海外研修へ応募した。
「退去日は月末でいい?」
公晴が訊く。
「私も研修が決まった。半年、台北」
「そうなんだ。よかったな」
「うん。公晴も」
どちらも、相手が自分との未来を選ばなかったのだと思った。
本当は、選んでほしいと言えなかっただけだった。
引っ越し当日、二台の業者が同じ時刻に来た。
公晴の箱には〈名古屋〉、梢子の箱には〈台北保管〉と書かれている。
最後に残った食卓で、二人はコンビニのおにぎりを食べた。
「いつ、別れたんだろう」
梢子が訊いた。
公晴はしばらく考えた。
「梢子が、一人でも大丈夫って言った夜」
「私は、公晴が分かったって言った夜だと思ってた」
二人は顔を上げた。
「私、遠距離でも大丈夫って意味だった」
「僕も、そのつもりで分かったって」
「じゃあ、どうして」
「梢子が研修を決めたから」
「公晴が部屋を引き払うから」
言葉が重なり、今度こそ同じ意味で沈黙した。
やり直そうと言えば、まだ間に合ったかもしれない。
けれど航空券も契約書も、何より、確かめるより先に諦めた二人の癖も残っていた。
公晴が笑った。
「次に誰かと暮らすなら、意味を確認したほうがいい」
「公晴も。『分かった』だけで会話を終わらせないで」
梢子も笑った。
玄関で鍵を二本並べ、管理会社の封筒へ入れた。
公晴は名古屋へ、梢子は空港近くのホテルへ向かう。
「元気で」
「大丈夫?」
今度の梢子は、少し考えて答えた。
「今は大丈夫じゃない。でも、いつか大丈夫になる」
句点をつけずに言った。
公晴は、今度こそ意味を訊き返さなかった。
二人は同じ誤解をほどいた日に、もう一度別れた。
言葉が足りなかったからではない。
足りないままでも相手なら分かると、互いに甘えていた恋を終わらせるためだった。