「無理しなくていい」の続き
永海柚寧が神戸支社への異動を告げた夜、小野里律生は蕎麦を二人前ゆでていた。
「三年だって」
「長いな」
「律生は店があるし、ついてきてとは言えない」
「うん」
「待っていてほしいって言ったら、困る?」
律生は湯切りをしながら答えた。
「無理しなくていいよ」
柚寧は「分かった」と言った。
律生が続けるつもりだった「でも、僕は待ってる」は、鍋の湯気の中へ消えた。
彼は、相手を縛らない優しさを選んだつもりだった。
彼女は、未来を求められていないのだと受け取った。
異動までの一か月、二人は別れの準備をした。
柚寧は一人用の部屋を契約し、律生は店の二階へ戻ると決めた。
食器を分け、共同口座を閉じ、互いの両親へ「遠距離は難しいので」と説明した。
「本当にこれでいい?」
律生は何度か訊いた。
柚寧は、その質問こそ答えだと思った。彼が「嫌だ」とは言わないから。
「無理しなくていいよ」
彼女も同じ言葉を返した。
引っ越し当日、空になった台所で最後の蕎麦を食べた。
器は一つずつ。葱の切り方も、つゆの濃さも、二人で暮らすうちに同じになっていた。
「最初の夜、どうして続きを言わなかったの」
柚寧が訊いた。
律生の箸が止まった。
「続き?」
「何もないならいい」
また終わりかけた会話を、今度は律生が止めた。
「僕は待つ、って言うつもりだった」
「……私は、待たなくていいって意味だと思った」
「違う」
「じゃあ、どうしてそのあとも言わなかったの」
「柚寧が平気そうだったから」
「平気なふりをしたの。律生が望んでないと思ったから」
二人は、同じ一か月を別々の別れとして過ごしていた。
「やり直す?」
律生が訊いた。
柚寧は泣きながら首を振った。
異動や契約のせいではなかった。
欲しい言葉を相手が察するまで黙り、相手も同じように黙る。その癖を、距離ができるたび繰り返す未来が見えた。
「私たち、優しくするたび言葉を省きすぎたね」
「うん」
「『無理しなくていい』のあとに、本当は何をしてほしいか言わなかった」
「言えば、重くなると思った」
「言わないほうが、ずっと重かったよ」
駅で、律生は荷物をホームまで運んだ。
発車ベルが鳴る。
「元気で」
「柚寧も」
「それだけ?」
彼女が笑う。
律生は深く息を吸った。
「行ってほしくない。でも、行っておいで」
柚寧は初めて、言葉の全部を受け取った。
だからこそ、笑って列車へ乗れた。
扉が閉じる。
二人の関係を救うには遅すぎた一文が、最後の別れだけを正しい意味にしてくれた。