あと一段のために
夕方の駅で、会社員は腕時計を見ながら階段を上っていた。
あと三分で快速が出る。間に合えば、娘の保育園の迎えにも間に合う。最近は残業続きで、迎えを妻に任せてばかりだった。今日は自分が行くと約束していた。
踊り場で、ベビーカーを押す父親が立ち往生していた。
片手に買い物袋、背中に大きなリュック。ベビーカーの中では赤ん坊が泣き、上の子が手すりにつかまっている。エレベーターは点検中だった。
「駅員さん、呼びましたか」
会社員が尋ねると、父親は苦笑した。
「今、別の方の対応中だそうです。ゆっくり上がります」
ベビーカーの前輪を一段持ち上げる。後輪を引き寄せる。そのたび荷物が揺れ、赤ん坊の泣き声が大きくなった。
会社員は時計を見た。
快速まで、二分。
「前を持ちます」
「でも、電車――」
「次があります」
本当は、次では迎えに遅れる。
二人は声を合わせ、一段ずつ上った。上の子には、会社員の鞄を持ってもらった。
「これ、重い?」
「少し」
「じゃあ、おじさんも手伝ってもらってるね」
子どもは胸を張った。
最後の一段を越えたとき、快速の扉が閉まった。父親は何度も頭を下げた。
「大事な予定があったんじゃ」
会社員はホームへ走りながら答えた。
「あります。だから急ぎます」
普通電車の中から保育園へ電話すると、娘が代わった。
「パパ、遅れるの?」
「十分だけ。ごめん」
「走った?」
「途中まで。でも、階段で赤ちゃんを持ち上げた」
娘は少し黙り、それから言った。
「じゃあ待つ。赤ちゃん、階段むずかしいもんね」
保育園へ着くと、娘は玄関で腕を組んでいた。
「遅い」
「ごめんなさい」
「でも今日は、いい遅い」
帰り道、娘は自分の荷物を持ちたがった。重いからと会社員が取ろうとすると、首を振った。
「一段だけなら持てる」
その夜、娘は画用紙に長い階段を描いた。上にはベビーカー、下には鞄を持つ小さな自分がいる。
「私も手伝ったことにした」
会社員は笑い、絵を冷蔵庫へ貼った。
小さな親切は、予定どおりに着く時間を少し減らす。
その代わり、誰かを待てる時間を、別の人の中へ増やすことがある。