いちばん近い記念品
卒業式が終わると、廊下は急に市場みたいになった。
「第二ボタン、まだある?」
教室へ戻る途中、柊木千景に呼び止められた久慈川朔弥は、反射的に胸元を押さえた。第一は襟の陰、第二は心臓に近い。そんな説明を、三年間で何度聞いたかわからない。
「あるけど」
「じゃあ、ちょうだい」
言い方があまりに事務的で、朔弥は笑いそうになった。千景とは出席番号が前後で、プリントを渡すときだけ話した。体育祭で同じ係になり、文化祭の片づけで一度だけ帰りが一緒になった。特別な記憶は、どれも他人に説明すると薄くなるものばかりだった。千景が消しゴムを落とした回数も、朔弥が窓を閉め忘れた日に無言でカーテンを結んでくれたことも、二人以外にはただの日常だ。
卒業証書の筒を抱えた生徒が何人も通り過ぎた。誰かの制服から外されたボタンが床で跳ね、持ち主より先に歓声が上がる。千景はそのたび目だけで追い、それから朔弥へ視線を戻した。
朔弥が糸を引くと、ボタンは思ったよりしぶとかった。千景は待ちきれず、裁縫箱から小さな鋏を出した。
「持ってるんだ」
「今日、誰かが困ると思って」
ぱちん、と糸が切れた。
掌に落ちた黒いボタンには、糸くずが白く絡んでいた。朔弥は三年間で初めて、自分の制服が急に古びて見えるのを感じた。これを渡せば、今日らしい場面になる。そう思って差し出すと、千景は受け取らず、朔弥の胸元を指さした。
「そこじゃない」
「え?」
「私がほしいの、名札」
朔弥の制服には、校章の下に白い布の名札が縫いつけてある。千景は耳まで赤くしながら続けた。
「ボタンだと、誰のかわからなくなるから」
廊下の向こうで誰かが歓声を上げた。朔弥は切り取ったばかりの第二ボタンを握りしめたまま、今度は名札の四隅に鋏を入れた。
最後の糸が切れる前に、千景が小声で言った。
「それと、四月からも読める連絡先を書いて」
朔弥はようやく、第二ボタンより心臓に近いものを渡すのだと気づいた。
帰宅して制服を脱いだとき、朔弥の胸には第二ボタンより大きな四角い跡が残っていた。そこだけ布の色が濃く、三年間ずっと名前を守っていたことがわかった。朔弥はその空白を写真に撮り、千景へ送った。返ってきたのは、名札を掌に載せた写真と、〈なくさない〉の四文字だった。