こぼれる夢
夫を亡くしてから、母は毎晩、翌日にこぼれる液体の夢を見るようになった。
場所と色だけが分かる。
朝の台所に白い水面が見えれば、牛乳を奥へ置く。会議室の机に茶色い染みがあれば、紙コップへ蓋をする。
小さな失敗を先回りできるので、母はその夢をありがたいと思った。
高校生の息子は、何でも先に片づける母を窮屈がった。
「それ、落とすから」
「今日は白い服を着ないで」
「水筒は鞄の外側」
母が言うたび、
「まだ何もしてない」
と眉をひそめた。
ある夜、母は食卓いっぱいに透明な雫がこぼれる夢を見た。
水差しを確認し、花瓶をしまい、窓も閉めた。
夕食には汁物を出さず、息子のコップも空にした。
息子は食卓へ封筒を置いた。
美術学校の募集要項だった。
母は学費を見て、反射的に言った。
「今の成績なら普通の大学の方が」
そこまで言うと、透明な雫が紙へ落ちた。
息子の涙だった。
母は、夢が事故を防ぐためにあると思っていた。
けれど夢は、止めるべき液体と、こぼれなければ見えない液体を区別しなかった。
「続けて」
母が言うと、息子は黙った。
「反対するかもしれない。でも、先に全部聞く」
息子は、父が生きていた頃から絵を仕事にしたかったことを話した。
母へ言えば、家計を心配させると思って黙っていた。
父の遺品を売るつもりではない。奨学金も、働くことも考えている。
それでも怖いから、一度だけ応援してほしい。
母はすぐに答えられなかった。
学費も将来も不安だった。
ただ、息子の涙を拭く前に募集要項を閉じることだけはしなかった。
二人で夜遅くまで計算した。
受験を決めたわけではない。
見学へ行き、資料を増やし、その後で選ぶことにした。
翌晩、母はまた夢を見た。
駅のホームに、透明な雫が二つ。
翌日、学校見学の帰りに雨が降った。
二人は一本の傘へ入り、肩を濡らした。
母は雨を避けなかった。
息子も泣かなかった。
こぼれるものを全部止めれば、心まで乾いてしまうことがある。
それから夢を見ても、母はまず尋ねるようになった。
「これは防いだ方がいい?」
答えるのは夢ではない。
その場にいる人と、こぼれたあとで決めるのだった。