ごまの席、鯖味噌の夜

 鳴瀬修吾が小料理屋「灯り舟」に入るのは、決まって九時を過ぎてからだった。

「今日も、空いてる?」

 女将の小夜子は、カウンターの端を顎で示した。椅子の上には、店の三毛猫ごまが丸くなっている。

「空いてないねえ」

「じゃあ帰るか」

 修吾が踵を返すふりをすると、ごまは面倒そうに片目を開け、隣の椅子へ移った。毎晩繰り返す、小さな儀式だった。

 修吾の娘が家を出てから、半年になる。喧嘩をしたわけではない。ただ、最後の夕食で、娘が「一人で暮らしてみたい」と言ったとき、修吾は味噌汁の椀から顔を上げず、「勝手にしろ」と答えた。

 それ以来、娘の部屋の前を通るたび、言い直す機会を失った言葉が、薄い埃のように胸へ積もった。

「鯖味噌でいい?」

「いつもの」

 鍋の蓋が持ち上がる。生姜と味噌の甘い香りが、湯気に乗って修吾の眼鏡を曇らせた。小夜子は皿を置きながら、鯖の横に煮崩れた葱を多めに添えた。

「娘さん、葱が好きだったね」

「よく覚えてるな」

「ここで散々、あんたの愚痴を聞いたもの」

 ごまが前足を伸ばし、修吾の肘に肉球を押しつけた。魚を狙っているのではない。ごまは店のものを欲しがらない。ただ、人が黙り込むと、こうして触る。

「連絡、しようとは思うんだ」

「思うのは無料だね」

「何て書けばいい」

 小夜子は味噌を拭ったお玉を見つめた。

「鯖味噌を作りすぎた、でいいんじゃない?」

「作ったのはあんただろ」

「じゃあ、食べてたら思い出した」

 修吾は笑いかけて、鼻の奥が少し痛くなった。

 箸で鯖を割ると、骨から身がほろりと離れた。娘が幼い頃、骨を取ってやるのは修吾の役目だった。いつから自分は、言葉の骨ばかり残すようになったのだろう。

 会計の前、修吾は携帯を開いた。

〈鯖味噌を食べてたら、葱を全部取られたことを思い出した。元気か〉

 送信を押すと、膝の上へごまが乗った。ほどなく画面が震える。

〈今度帰る。お父さんが作って。小夜子さんのじゃなくて〉

「困ったな」

 そう言いながら、修吾は困っていない顔をしていた。

 店を出ると、冬の空気は冷たかったが、コートの内側には味噌と生姜の匂いが残っていた。背後で戸が閉まり、ごまの鈴が、ひとつだけ鳴った。