ご主人がお迎えです

 久我山佐保が救急搬送されたのは、マンションの非常階段から転落したためだった。

 頭と顎を強く打ち、言葉を話せない。右腕も骨折していたが、意識は戻っていた。

 翌日、夫を名乗る男が面会に来た。

「妻がお世話になっています」

 男は佐保の生年月日、勤務先、保険証の番号まで答えた。受付で家族用の面会証を受け取り、毎日、病室へ通った。

 男が来るたび、佐保の脈拍は跳ね上がった。

「事故の直後で混乱しているんです」

 男は看護師へ説明した。

「私の顔も分からないらしくて」

 佐保は左手で文字盤を指した。

〈おっと し〉

「夫を心配しているんですね」

 看護師が読むと、男は佐保の髪を撫でた。

「ここにいるよ」

 佐保は激しく首を振った。

 次に示したのは、〈このひと〉〈おした〉だった。

 しかし一文字ずつ選ぶうちに疲れ、鎮静剤で眠ってしまった。

 男は医師へ、記憶障害はいつ治るのか、証言できるほど会話が戻るのはいつか、と何度も尋ねた。退院後は自宅で面倒を見ると言い、必要な書類をすべて用意した。

 三日後、担当看護師の沼垂芙美は、古い診療記録を確認して手を止めた。

 佐保は四年前にも、この病院へ運ばれている。

 交通事故で夫を亡くし、本人だけが生き残ったと記載されていた。その後、再婚した記録はない。

 面会申請に添付された結婚写真は、佐保が以前SNSへ公開した画像を加工し、亡夫の顔だけ男へ置き換えたものだった。

 芙美は病室へ走った。

 ベッドは空だった。

 男が持参した服も、車椅子も消えている。机には退院同意書が置かれ、佐保の署名があった。

 右上がりの、力強い筆跡だった。

 佐保は右利きで、右腕は肩から指先までギプスで固定されている。

 枕元の文字盤だけが床へ落ちていた。

 裏面には、左手で何度もなぞった跡がある。

〈夫は死んでいる〉

〈この人が階段から押した〉

 病院の玄関カメラには、男が佐保を車へ乗せる姿が残っていた。

 佐保は後部座席から窓を叩いている。

 男は面会証を警備員へ見せ、穏やかに言った。

「妻は、まだ少し混乱しているんです」