ただいまの練習
八歳くらいの少年が家へ来た日、御厨千歳は母から「今日から弟よ」と紹介された。
遠い親戚の子で、事故のため以前の記憶が曖昧なのだという。少年は玄関に立ったまま、母を「おばさん」と呼んだ。
「違うでしょう。お母さん」
「……お母さん」
「もう一度、最初から」
少年は外へ出され、呼び鈴を押し直した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
それを十回繰り返してから、ようやく夕食になった。
少年の名は慧と決められた。好物はハンバーグ、苦手な教科は算数、幼いころ海で溺れかけた。どれも母が教え、慧は毎晩暗記した。
「本当にあったことじゃないでしょう」
千歳が尋ねると、父は笑った。
「家族になれば、思い出はあとからついてくる」
一か月後、四人で写真を撮った。
慧は上手に笑ったが、撮影の直前、「前のお母さん」と口にした。母は何も言わず、写真立てを床へ落とした。
その晩、千歳は母の寝室から鍵を盗んだ。
廊下の突き当たりに、開けたことのない物置がある。中には子どもの靴、ランドセル、名前を剥がした水筒が箱ごとに分けられていた。
古いアルバムもあった。
どの写真にも父と母が写っている。けれど子どもだけが違った。
丸顔の姉と痩せた弟。背の高い兄と双子の妹。裏には日付と、「長女・一代目」「次男・四代目」と書かれている。
千歳は自分が赤ん坊だったころの写真を探した。
一枚もなかった。
最も古い自分の写真では、七歳の千歳が玄関に立ち、ぎこちなく笑っていた。裏には母の字で、
〈長女・三代目。初日。「ただいま」は六回で合格〉
とあった。
それを読んだ瞬間、忘れていた声が戻った。
知らない駅。泣いている女。腕を引く父。そして今の家の玄関で、母が何度も言った。
「もう一度、最初から」
翌朝、千歳は慧を連れて逃げようとした。
玄関を開けると、見知らぬ少女が立っていた。千歳と同じくらいの年で、千歳の学校の制服を着ている。
母が少女の肩を抱いた。
「この子、まだ笑顔が苦手なの。お姉ちゃんとして教えてあげて」
父が千歳の背後で物置の鍵を回した。
少女は玄関の外へ一度下がり、呼び鈴を押した。
「ただいま」
母は千歳ではなく、少女のほうを見て微笑んだ。
「もう一度、最初から」