つま先は帰る方へ
瀬名垣紬は、祖母の通う診療所で、玄関の靴をそろえた。
頼まれたわけではない。雨の日で、狭い土間に長靴や運動靴が散らばり、杖をついた人が入るたびにつまずきそうだったからだ。
紬は一足ずつ端へ寄せ、つま先を外へ向けた。
祖母は待合室からそれを見ていた。
「お父さんと同じことするのね」
紬の手が止まった。
父は三年前、家を出た。仕事を失って酒を飲むようになり、母と何度も喧嘩した末、離婚届だけを残した。紬は父の話をされるたび、「いない人のことはどうでもいい」と答えてきた。
けれど父は、家族で食事へ行くと、最後に必ず玄関の靴をそろえた。
「次の人が履きやすいから」
幼い紬は、自分の靴まで勝手に触られるのが嫌で、何度もわざと向きを戻した。
診察を終えた白髪の男性が、そろった靴へすっと足を入れた。腰を曲げずに済み、「助かった」と誰にともなく言った。続いて、子どもを抱いた母親も片手で靴を履けた。
誰も紬が並べたとは知らない。
それでよかった。
帰り道、祖母は古い封筒を渡した。父から届いた手紙だった。返事はいらない、元気ならそれでいい、と書かれている。最後に一行だけあった。
〈玄関で靴をそろえる癖は、まだ残っていますか〉
紬は返事を書かなかった。
代わりに翌週、父が働いているという町の食堂へ行った。昼どきの入口には、作業靴が乱雑に脱がれていた。
父は厨房にいて、紬に気づかなかった。
紬は黙って靴をそろえた。つま先を、帰る方へ向けた。
店を出ようとしたとき、背後で父の声がした。
「ありがとう」
誰に言ったのか分からないほど、小さな声だった。
紬は振り返らずに答えた。
「次の人が履きやすいから」
厨房から足音が一歩近づき、止まった。父は言い訳も謝罪もせず、「外、雨だから」と一本の傘を差し出した。紬は受け取らず、持ち手を二人の間に残したまま、一緒に軒下まで歩いた。
靴をそろえるだけで、離れていた三年が消えるわけではない。
それでも玄関には、出ていく向きだけでなく、もう一度入ってくるための向きもある。