もう一回、兄ちゃん
兄の部屋を片づけていると、押し入れの奥でセキセイインコが鳴いた。
青い羽根の「豆電球」。十三歳。兄が高校生のころから飼っていた鳥だ。
「おまえ、まだ生きてたのか」
豆電球は首を傾げ、知らない声を聞くように私を見た。
兄とは七年、口をきいていなかった。
子どものころ、兄は私のピアノ練習につき合った。間違えるたび私が「もう一回、兄ちゃん」と言い、兄は「いいよ」と譜面を戻した。豆電球は籠の中で、鍵盤より大きな声を出した。三人で同じ曲を覚えたのだ。
音大を目指した私がコンクールで失敗した夜、兄は慰める代わりに「向いてないならやめてもいい」と言った。
私はそれを見下された言葉だと思い、家を出た。ピアノもやめた。
葬儀で、兄が私の演奏会の古い切符を財布に入れていたと聞いた。それでも、生きているうちに言えばよかったのに、と腹が立った。死んだ人へ怒るのは卑怯だと思いながら、怒る以外に何をすればいいのかわからなかった。
豆電球の籠を持ち上げると、底から音楽ノートが出てきた。兄の字で、私が幼いころ弾いた曲の題名が並んでいる。日付は私が家を出たあとも続き、横には短い記録があった。
〈動画で聴く。左手が少し速い〉
〈今年は弾いていないらしい〉
〈待つ。やめたと決めるのは本人だ〉
兄は、私が投稿した演奏動画を、見つからない名前でずっと聴いていた。最後のページは空白だった。
そのとき、豆電球が幼い私の声で言った。
「モウイッカイ、ニイチャン」
胸の奥が痛んだ。
続いて、少しかすれた兄の声。
「イイヨ」
七年前の喧嘩より、もっと昔の二人が、籠の中で会話していた。
実家のピアノは何年も調律されていなかった。鍵盤は重く、一つだけ音が狂っていた。それでも椅子に座り、最初の曲を弾いた。
途中で何度も間違えた。
「もう一回、兄ちゃん」
返事はすぐに来た。
「イイヨ」
私は最初から弾き直した。豆電球は譜面台で羽を膨らませ、同じ二語を何度も繰り返した。
兄の代わりではない。
許された証拠でもない。
それでも、終わったと思っていた曲に、もう一度だけ戻る場所をくれた。
ノートの最後のページへ、私は書いた。
〈今日、また弾き始めた。兄は不在。返事は一羽〉
書き終えると、豆電球が鉛筆の先をつついた。
まるで、次の行を急かすように。