もう一通の退職届
鴇田真昼が部長昇進の面談室へ入ると、机の向こうに同じ顔の女が座っていた。
人事AIの新制度《分岐照会》は、重要な決定の前に「別の選択をした自分」から助言を受ける。女は十二年前、父の介護のため会社を辞めた真昼だった。こちらの真昼は仕事を選び、父の最期に間に合わなかった。
「昇進、おめでとう。欲しかったな、その椅子」
「父さんと暮らせたでしょう」
「暮らしたよ。夜中に四回起こされ、友達を失い、父さんに『おまえの人生を潰した』って泣かれながら」
真昼は言い返せなかった。十二年間、介護した自分なら後悔しなかったはずだと思ってきた。向こうもまた、働き続けた自分なら報われたはずだと思っていた。
人事AIが質問した。
〈どちらの人生を優位と評価しますか〉
二人は同時に「相手」と答え、同時に顔をしかめた。
向こうの真昼は、父が最期の日に残した音声を再生した。『どっちを選んでも、おまえは俺のせいにする。だから、自分で選んだと言え』
こちらの世界には存在しない言葉だった。真昼は泣かなかった。泣く資格まで向こうにある気がした。
面談の翌日、彼女は退職届ではなく、異動願を出した。介護離職を減らす社内制度の責任者になりたい、と書いた。昇進コースからは外れる。父は戻らない。向こうの十二年にもならない。
最後の通信で、向こうの真昼が笑った。
「中途半端ね」
「そっちも、地域の介護相談員になるんでしょう」
「ばれた?」
二人は画面越しに、それぞれの退職届を破った。
正解だったかは、どちらの世界のAIにも採点できなかった。けれど真昼は初めて、自分の人生を父にも、もう一人の自分にも預けずに選んだ。
異動初日、介護を始めたばかりの社員が相談に来た。「仕事も父も、どちらも失敗したらどうしますか」。真昼は模範回答を閉じ、「後悔しない制度は作れません。でも、ひとりで選んだことにされない制度なら作れます」と答えた。窓に映る自分が、一瞬だけ二人に見えた。
真昼はそこで、少しだけ笑った。