もっと小さな願い
仁科灯里がその店を見つけたのは、父のパン屋を畳むと決めた夜だった。
商店街の外れに、昨日までなかった硝子戸がある。曇った看板には《願い、一つ》とだけ書かれていた。
灯里は戸を開けるなり言った。
「父を生き返らせてください」
帳場の老人は、小さな天秤に白い豆を一粒載せた。皿は動かなかった。
「大きすぎます」
「では、一日だけ」
「まだ」
「一時間」
老人は首を振る。
灯里は腹を立てた。願いをかなえる店のくせに、値切るとは何事だ。父は三週間前、仕込み台にもたれたまま死んだ。最後に焼いた食パンは、焦げていた。灯里はそれを「こんなの売れない」と言い、父は返事をしなかった。それが最後の会話だった。
「じゃあ、父に私のパンを一口食べてほしい」
天秤は揺れない。
「もっと小さく」
灯里は拳を握った。食べてほしいのではない。褒めてほしいのでもない。許してほしいのかと考え、それも少し違った。
父は味を見るとき、必ず左の頬だけをふくらませた。うまいときも、まずいときも同じだったから、灯里には判別できなかった。
「父がパンを食べたときの顔を、きちんと思い出したい」
白い豆が、かすかに持ち上がった。
老人はもう一度、首を振った。
灯里は目を閉じた。焦げた匂い。銀色の仕込み台。父の節くれだった手。自分の声だけが、やけに鋭く残っている。
「最後のパンを、父が嫌いではなかったと知りたい」
天秤が釣り合った。
老人は何も渡さなかった。代金も取らなかった。ただ、硝子戸を開けた。
店を出ると、パン屋の二階に灯りがついていた。消したはずなのにと思いながら上がると、仕込み台に古い帳面が開いていた。父の字で、最後の日の欄に一行だけある。
《灯里の焦げパン。悔しいが、香りは俺よりいい》
その横に、頬をふくらませた丸い顔が描いてあった。油染みの向こうに、書き直した跡が三つある。父も言葉を選んだのだと、初めて分かった。
灯里は笑い、すぐに泣いた。
翌朝、閉店の貼り紙を剥がした。焦げないように焼いた食パンを一枚切り、左の頬だけをふくらませて噛んだ。
父の顔は、もう思い出さなくても、そこにあった。