ベールを畳む手
鳥飼澄乃が消えたのは、披露宴の入場三分前だった。
控室にはベールだけが残り、椅子の背から床へ白く流れていた。早瀬莉子はスタッフに「化粧室です」と告げ、非常階段、喫煙所、リネン室の順に捜した。澄乃は三つ目にいた。ドレスの裾を抱え、積まれたテーブルクロスの間にしゃがんでいた。
「退職するって、聞いてた?」
さっき会場で、新郎が司会者と確認していた。「結婚を機に澄乃さんは家庭に入ります」と紹介するらしい。澄乃は広告制作の仕事を辞めるつもりなどなかった。繁忙期のたびに愚痴を言ってはいたが、それと手放すことは別だった。
莉子は、安定した暮らしを選ぶ人だ。転職も同棲も「条件がいいなら早く決めれば」と言う。自分なら、収入の波がある仕事を手放し、決まった時間に帰れる生活を選ぶだろう。澄乃が結婚後も徹夜を続けたい気持ちは、正直わからなかった。けれど、辞めるなら本人が机を片づけ、最後のデータを送るべきだと思った。披露宴の紹介文で終わらせることではない。
「本人には、式が終わってから話すって」
澄乃の声は静かだった。その静けさが、莉子には泣き声より危険に聞こえた。
莉子は「勘違いかも」とも「一度だけ出れば」とも言わなかった。まずベールを拾った。細いコームから髪が数本絡んでいる。一本ずつ外し、四角く畳む。次に澄乃のスマートフォンと財布を小さなバッグへ入れ、ハンガーに掛かっていたコートを取ってきた。
「ドレス、脱げる?」
背中のくるみボタンは四十個あった。澄乃が上から、莉子が下から外した。途中で指がぶつかったが、謝らなかった。二人は結婚にも仕事にも同じ考えを持っていない。それでも、本人のいないところで決められた役を着たまま、扉の前へ戻すことだけはできなかった。
澄乃が私服のパンツに脚を通す。莉子は衣装袋へドレスを収め、重い裾を腕に載せた。
「会場には私も戻る」
「止めるため?」
「荷物を持つため」
リネン室を出ると、廊下の向こうで入場曲が鳴り始めた。莉子はドレスを抱え直し、澄乃は畳んだベールを持った。
二人は同じ歩幅で、会場とは反対の搬入口へ向かった。