一人分の引っ越し

沓掛菫は、自分の引っ越しだけはしたくなかった。

引っ越し会社で七年働き、何百組もの門出を運んできた。冷蔵庫は先に空にする。段ボールの底は十字に留める。重い物を持つときは、息を合わせる。

最後のことだけは、曽根崎周に教わった。

「せーの、は掛け声じゃない。相手を信じる合図」

同じ班になり、恋人になり、二人で暮らして三年目。日当たりのいい部屋へ移る予定の十日前、周は配送先へ向かう途中の事故で死んだ。

葬儀の日より、洗面台から彼の歯ブラシを捨てた夜のほうが泣いた。暮らしは大きな別れより、小さな撤去を何度も要求した。

旧居の退去日は変えられなかった。

同僚たちが無言で荷物を運び出す。菫は玄関に立ち、段ボールへ貼られた札を読み上げた。

「食器、新居」

「冬服、新居」

「周の靴は……処分」

口にするたび、二人の暮らしが新居と処分に切り分けられた。片方だけのマグカップ。周しか読まなかった漫画。喧嘩して買い直したカーテン。物はどれも軽かった。なぜ要るのかを知っていた人がいないことだけが、ひどく重かった。

最後に、小さな食卓が残った。

周と初めて運んだ家具だった。脚の裏には、彼の字で〈二人暮らし開始〉と書いてある。

同僚が片側を持ち、菫の合図を待った。

だが「せーの」が喉につかえた。その続きを言えば、周ではない誰かと息が合ってしまう。それが裏切りのように思えた。

長い沈黙のあと、同僚が静かに言った。

「曽根崎なら、腰で持てって怒りますよ」

菫は泣きながら笑い、膝を曲げた。

「せーの」

「はいよ」

食卓はあっけなく持ち上がった。

新居で、菫は椅子を二脚並べた。けれど夕食の前に、周の椅子を窓へ向けた。向かいに空席を置けば、帰りを待ち続けてしまう。窓辺なら、彼の好きだった夕焼けを預けられる。

一人分の皿を置き、菫は初めて声を出した。

「いただきます」

返事はなかった。

それでも食卓は、もう動かなかった。二人で運んだ最後の家具として、一人で生きる最初の場所に立っていた。