一杯ぶんの昆布
二十九歳の誕生日の朝、紬は台所の椅子に座ったまま、昆布を五センチだけ切った。
医師は春まで、と言った。いまは十一月で、来年の誕生日については誰も口にしない。母は昨日から、何を食べたいかを何度も聞いた。ケーキなら駅前で買えるし、寿司なら出前を取れる。紬が答えたのは、結乃が来る前に味噌汁を作りたい、ということだけだった。
妹は夜勤明けに寄る。疲れていると、菓子パンだけで眠る癖がある。
鍋に水を張り、昆布を沈める。立っていると息が浅くなるので、火にかけるまでを椅子に座ってやった。父が生きていたころは、昆布は水から、味噌は火を止めてから、と毎週のように言われた。あの言い方を思い出すと腹が立つのに、手順だけは残っている。
具は豆腐と長ねぎ。包丁が重く、豆腐は揃わない四角になった。長ねぎは薄すぎるものと厚すぎるものが混じった。紬は直さなかった。写真に撮る料理ではない。
棚から椀を二つ出した。結乃の椀は、子どものころから使っている黄色い花柄で、縁が一か所欠けている。母は新しいものに替えたがったが、結乃が捨てさせなかった。紬は欠けた部分を奥へ向けて食卓に置いた。
玄関の鍵が回り、結乃が「ただいま」と言った。自分の家でもないのに、昔からそう言う。
「起きてたの」
「誕生日だから」
「誕生日って早起きする日だっけ」
結乃は紙袋を冷蔵庫に押し込み、化粧も落とさず床に座った。袋の隙間から、小さな苺の箱が見えた。紬は見なかったふりをして、鍋の昆布を引き上げた。
沸く直前の水は、音より先に鍋底を細かく震わせる。削り節をひとつかみ入れ、沈むのを待つ。漉す体力は惜しかったので、網じゃくしですくった。豆腐を入れると白い角がゆっくり回った。
味噌を溶く。少し薄い気がしたが、結乃は夜勤明けには濃い味を嫌う。もう一度だけ味見をして、ねぎを散らした。
結乃は床に座ったまま、目を閉じている。紬は二つの椀を並べ、片方を妹の前に置いた。自分の椀は半分だけよそった。
湯気が結乃の頬に触れ、閉じていたまぶたが上がった。
紬は鍋の火を止めた。