一枚目は知らない人へ

鳥飼弥琴は、母の見舞いへ行く途中、駅前で老婦人が転ぶのを見た。

買い物袋からリンゴが転がり、掌から血がにじんでいる。通行人は足を緩めたが、電車の時間を思い出したように通り過ぎた。

弥琴はリンゴを拾い、母の鞄から移しておいた救急ポーチを開いた。花柄の絆創膏が二枚入っている。

「少し水で洗ってから、これを」

老婦人は何度も首を振った。

「あなたを遅らせてしまうわ。年を取ると、迷惑ばかりね」

「私、頼ってもらえたほうが助かります」

それは母に言いたかった言葉だった。

脳梗塞で右手が動きにくくなった母は、見舞いへ行くたび「一人でできる」と怒った。水をこぼしても、服のボタンを留められなくても、看護師を呼ばない。弥琴が手を出すと、娘にこんな姿を見せたくない、と顔を背けた。

老婦人は観念してベンチへ座った。弥琴が傷を洗い、花柄を貼ると、皺の多い掌に小さな庭ができた。

「派手ねえ」

「母の趣味です」

「じゃあ、お母さまにも一枚残しておかないと」

老婦人は歩き出す前、転がったリンゴを一つ弥琴へ渡した。

「これは治療費。甘くなかったら、ごめんなさい」

弥琴は受け取り、二人で笑った。

病室へ着くと、母は床へ落とした紙コップを、動く左手だけで拾おうとしていた。弥琴が近づくと、いつものように「大丈夫」と言う。

その右手の人差し指には、車椅子の金具で擦った新しい傷があった。

弥琴は黙って、残った一枚を出した。

「さっき、知らない人に一枚あげた。迷惑をかけたって謝られた」

母は目を伏せた。

「私も、同じことを言いそう」

「うん。でも、頼ってもらえたほうが助かる」

母はしばらく抵抗したあと、右手を差し出した。弥琴が花柄を巻くと、母はそれを見て笑った。

「子どもみたい」

「傷に年齢は書いてないよ」

二人で落ちた紙コップを拾い、老婦人にもらったリンゴを分けた。少し酸っぱかったが、母は「治療食らしい」と言って完食した。

翌週、母は初めて自分から看護師を呼び、ボタンを留める練習を手伝ってもらった。弥琴が驚くと、母は右手の花柄を見せた。

「一枚目の人に、負けていられないから」

退院の日、母の鞄には花柄の絆創膏が三枚入っていた。

一枚は自分のため。

残りは、まだ会っていない誰かのためだった。

小さな親切は、傷をふさぐだけではない。

助けてもらってもいいのだと、次の誰かへ伝わっていくことがある。