七時四十二分の投函
忘れた傘を取りに戻った朝、昇降口にはまだ誰もいなかった。
湿ったモップの匂いと、運動部が校庭を走る掛け声だけ。時計は七時四十二分を指していた。
自分の下駄箱の前に、誰かがしゃがんでいた。
同じクラスの彼女だった。白い封筒を両手で持ち、投入口のない金属の扉を前に、なぜか深呼吸している。
僕の足音に気づくと、彼女は振り向いた。目が合ったまま、封筒を背中へ隠した。
「まだ来ないで」
「そこ、僕の下駄箱だけど」
彼女は固まった。僕も固まった。
朝練の笛が遠くで鳴った。逃げ道を探すように彼女の視線が左右へ動く。僕は傘のことなど忘れ、昇降口の入口まで三歩戻った。
「じゃあ、一回見なかったことにする」
「無理でしょ」
「目、閉じるから」
本当に目を閉じた。上履きを取り出す音。紙が金属に触れる音。扉が閉まる音。足音は僕の前まで来て止まった。
「もういいよ」
目を開けると、彼女は顔を赤くしていた。
「読まなくてもいいから」
「それ、いちばん困る言い方」
「じゃあ、今日中に読んで」
そう言い残して、彼女は階段へ走った。途中で上履きが脱げ、拾ってまた走った。
僕は下駄箱を開けた。封筒には僕の名字だけが書かれていた。いつも板書を写す、少し右上がりの字だった。
教室へ行っても、すぐには開かなかった。彼女は窓際の席で、こちらを一度も見なかった。授業が始まり、休み時間が過ぎ、昼になった。
手紙は教科書の間で、ずっと薄い音を立てていた。
放課後、ようやく開いた。長い文章ではなかった。
『朝、あなたが一番に来る日を三週間待ちました。話すと冗談にしてしまいそうなので、書きます。好きです』
僕は三週間、部活の朝練をさぼっていた。だから彼女は毎朝、誰もいない昇降口で待っていたことになる。
返事を書く紙がなく、数学の小テストの裏を使った。
『明日は七時四十分に来ます。今度は待たせません』
帰りの下駄箱へ入れるとき、背後で足音がした。振り向くと彼女が立っていた。
「見ないで」
今度は僕が言った。
彼女は笑い、両手で目を覆った。指の隙間は、少しだけ開いていた。