七秒だけ、開けておく

室鳩深雪が産科病棟を出る朝、鞄の中には、着せる相手のいない産着が入っていた。

昨夜まで何度も泣いたせいで、もう涙は出なかった。看護師に見送られ、下りのエレベーターへ乗る。閉ボタンへ指を伸ばしたとき、廊下の向こうから杖の音がした。

かつ、かつ、かつ。

白髪の男性が、小さな花束を抱えて歩いてくる。扉が閉まり始めた。

深雪は開ボタンを押した。

「ゆっくりで大丈夫です」

男性は何度も頭を下げ、息を切らして乗り込んだ。胸元の袋から、手編みの靴下がのぞいている。

「初孫に会うんです。予定より三か月も早く生まれてね」

男性は深雪の鞄を見て、やさしく笑った。

「あなたも、おめでとうございます」

深雪は答えられなかった。

「今日は、違うんです」

それだけ言うと、男性の顔から血の気が引いた。

「すみません。私、なんてことを」

「いいんです」

よくはなかった。けれど、男性の喜びまで間違いにしたくなかった。

新生児集中治療室の階で扉が開いた。ところが男性は動かなかった。花束を持つ手が震えている。

「怖くなりまして。電話では、会えるうちに来てください、と」

開いた扉が警告音を鳴らした。深雪はもう一度、開ボタンを押した。

「急がなくていいです。出られるまで、押してますから」

男性は深く息を吸い、一歩ずつ廊下へ出た。最後に振り返り、声にならない礼をした。

一階へ着いても、深雪はすぐ降りられなかった。玄関の向こうでは、赤ん坊を抱いた家族が記念写真を撮っている。笑い声が胸へ刺さった。

扉が閉まりかけた。

外から、ベビーカーを押す女性が「待ってください」と走ってきた。

深雪は反射的に開ボタンを押した。

七秒ほど待っただけだった。

赤ん坊を失った悲しみは消えない。産着の重さも変わらない。

それでも深雪は思った。

誰かの幸せが通るために、扉を少し開けておけた自分は、まだ世界の外へ出てしまったわけではない。

女性が乗り込み、「ありがとうございます」と笑った。

深雪は今度は、ちゃんと答えた。

「どういたしまして」