三センチ狭い廊下
波佐見怜花が消えて八か月後、私たちは柊坂玄吾を彼女の別荘へ連れ戻した。
車の窓を覆ったのは、報道陣を避けるためだと説明した。事件当日と同じ雨の晩に、最後の行動を再現する。記憶は環境によって蘇る――建築家の柊坂自身が、以前そう語っていた。
玄関には青い壺。右手に階段、正面に書斎。濡れた木と百合の香りまで、あの夜のままだった。
「怜花さんと口論したのは?」
「食堂です。彼女はそのあと書斎へ行った。私は帰った」
柊坂は迷いなく廊下を進んだ。自分が設計した家なら、目を閉じても歩けると豪語していた男だ。
西棟へ曲がったところで、彼は足を止めた。
「廊下が三センチ狭い」
「分かるんですか」
「私が造った家だ。壁の呼吸まで分かる」
窓の外は真っ暗だった。雨は激しいのに、硝子へ一滴も流れていない。柊坂は気づかず、書斎の机、絨毯、暖炉を順に確かめた。
「ここで別れた。それ以上は知らない」
私は暖炉脇の壁を指した。新しい漆喰が、長方形に塗られている。
「この裏を捜します」
柊坂は鼻で笑った。
「そこには配管しかない」
「では、どこなら人を隠せます?」
「北側の本棚だ。下から四段目を抜けば、躯体との間に――」
言葉が切れた。
誰も動かなかった。
「続けてください」
「設計者なら知っている」
「図面にはありません。改装記録にも、空洞の位置は残っていません」
柊坂が玄関へ走った。扉を開けた先に庭はなかった。
白い照明が一斉につき、雨音が止む。壁の上端は天井へ届かず、その向こうに鉄骨と観覧席が現れた。私たちがいたのは別荘ではない。警察学校の倉庫に組んだ、原寸大の模型だった。
廊下を三センチ狭くしたのは、違和感を与えるため。窓の闇は黒幕。百合の香りも噴霧器だ。
「本物の家なら、あの壁を開けられたのに」
私は言った。
「偽物だからこそ、あなたが開けました」
夜明け前、北側の本棚の裏から怜花の遺体が見つかった。
柊坂は家へ帰ったつもりだった。
だが彼を待っていたのは、住所のない家と、そこにだけ置かれた逃げ場のない廊下だった。