三停留所ぶんの遠回り
小比賀章生は、バスで席を譲るのが苦手だった。
立ち上がったのに断られたら恥ずかしい。年寄り扱いするなと怒られるかもしれない。そんな心配を並べているうちに、いつも誰かが先に声をかけた。
祖母と乗った最後のバスでも、そうだった。
買い物帰りの祖母は杖を握り、揺れるたびに章生の肩へぶつかった。席を譲ろうと思ったのに、「次で誰か降りるかも」と黙っていた。祖母は笑って「若い人は疲れてるからね」と言った。
その三日後に倒れ、二度と一緒に出かけられなかった。
四十九日の帰り、章生は一人で同じ路線に乗った。雨で車内は混み、優先席まで埋まっていた。途中から、折り畳み傘と紙袋を抱えた老婦人が乗ってきた。細い腕が、発車のたびに大きく揺れた。
胸の中で、言い訳がいつもの順番に並んだ。
まだ年寄りじゃないかもしれない。
断られるかもしれない。
誰かが先に――。
章生は、言い訳が最後まで並ぶ前に立った。
「ここ、どうぞ」
老婦人は驚き、首を振った。
「あなた、まだ先でしょう」
本当は終点の二つ前まで乗る予定だった。けれど章生は、降車ボタンを押した。
「僕、次です」
老婦人はようやく座り、濡れた紙袋を膝へ載せた。中には小さな菊の花束が見えた。
「お墓参りですか」
章生が尋ねると、老婦人は笑った。
「夫に、今日も無事だったって報告しにね。ひとりでバスに乗るの、まだ慣れなくて」
次の停留所で降りるとき、老婦人が深く頭を下げた。
「助かりました。怖いときに座れると、少しだけ遠くまで行けるのね」
扉が閉まり、バスは章生を置いて走り去った。
そこから家までは三停留所。雨脚は強くなり、靴下まで濡れた。それでも章生の足は、不思議なくらい軽かった。
帰宅すると、母が玄関で驚いた。
「どうして歩いてきたの?」
章生は、祖母の遺影が入った鞄を抱え直した。
「ばあちゃんに借りてた席を、ひとつ返してきた」
祖母に直接返せたわけではない。
あの日の後悔が消えたわけでもない。
けれど次に立ち上がるための勇気なら、三停留所ぶんの遠回りで、ようやく自分のものになった。