三分の一の水
霜鳥絃葉は、母の死後、台所の窓辺にあるメダカ鉢へ誰も触れさせなかった。
鉢には六匹いた。母が「朝いちばんの光を食べる子たち」と笑っていた六匹だ。叔父が水替えをしようとすると、絃葉は両腕で鉢を抱いた。
「この水には、お母さんが触ってたから」
春が過ぎるころ、水は緑に濁った。底に沈んだ餌を見つけることもできない。それでも絃葉には、澄んだ水へ替えることが、母を薄める行為に思えた。
ある蒸し暑い朝、一匹が水面で口をぱくぱくさせていた。ほかの五匹も動きが鈍い。絃葉は母の飼育ノートを開いた。餌の量、産卵日、日当たり。丸い字の最後のページに、赤線が引かれていた。
《水替えは一度に三分の一。古い水を残し、新しい水を足す。全部を捨てないこと。でも、全部を残そうともしないこと》
絃葉は台所で泣いた。母が水槽のことだけを書いたのではないと、わかってしまった。
小さな計量カップで、濁った水をすくった。一杯目は葬儀の日のように重かった。二杯目で、母と最後に喧嘩した夜を思い出した。三杯目を流すとき、「ごめんね」と声が出た。
同じ温度にした新しい水を、鉢の縁からそっと注ぐ。水面が揺れるたび、六匹の背が銀色に光った。やがて、口を開けていた一匹が深く潜った。
翌朝、ホテイアオイの根に、小さな卵がついていた。
絃葉はノートの空白へ、初めて自分の字を書いた。
《五月二十七日。卵を十二個見つけた。お母さんの六匹は、今日も元気》
少し考え、その下へ付け足した。
《私も、昨日より元気》
夏には稚魚が生まれた。透明な体は、目を離せば消えてしまいそうだった。絃葉は毎朝、母がしていたように窓を開け、「おはよう」と声をかけた。
鉢の水は、もうあの日の水ではない。何度も三分の一ずつ入れ替わり、雨も混じり、メダカの命を通って、別の水になった。
それでも絃葉は知っていた。
残っているものは、古い水そのものではない。
新しいものを迎えながら、失くさずにいる方法を、母がここへ置いていったのだ。