三分早い味噌汁
午前七時十二分。鍋の蓋がかすかに鳴り、母の佐和子が味噌汁を一口すすった。
「少し薄いかな」
澪は箸を止めた。
前の人生でも、母は同じ湯気の向こうで、同じ言葉を口にした。澪は時計を見ながら「塩を足せば」と答え、駅へ走った。その三時間後、会議中の机を震わせたのは、母の死亡を告げる着信だった。
味の問題ではなかった。右手から箸を落とし、片方の頬だけが動いていない。それでも母は、娘を遅刻させまいとして笑っていたのだ。
葬儀の後、澪は何度も救急講習を受けた。顔、腕、言葉、そして時刻。知識を得るたび、あの朝の異変が鮮明になり、自分の「塩を足せば」が刃のように胸へ戻ってきた。戻れるなら、何もかもではなく、あの返事だけを変えると決めていた。
「薄いかな」
二度目の問いに、澪は以前とは違う返事をした。
「味の話じゃない。今すぐ救急車を呼ぶ」
「大げさよ。あなた、今日プレゼンでしょう」
「前はそれを選んで、一生後悔した」
意味を尋ねられる前に、澪は受話器を取った。住所、症状、発症時刻。前の人生で何百回も調べた言葉が、今度は役に立つ順番で口から出た。
救急隊員が到着したのは七時二十分。母はまだ「薄い味噌汁くらいで」と笑おうとしたが、その声を聞いた隊員の表情が変わった。担架が玄関を出る。澪は火を止め、母の保険証と靴を持って後を追った。
駅へ向かう電車の発車通知が鳴った。前の人生では間に合わせた一本だ。澪は迷わず通知を消し、救急車の助手席へ乗った。プレゼン資料も昇進も、その先で取り返せる。母の今朝だけは、ここにしかない。
午前十時三十六分。
前の人生では、その時刻に病院から「残念ですが」と電話が来た。
今度のスマートフォンには、手術室前の看護師から短い通知が届いた。
《処置は間に合いました。現在、容体は安定しています》
澪はその通知を何度も読み直した。「安定」という二文字が、どんな合格通知よりまぶしかった。
続いて、麻酔に入る直前の母が吹き込んだ音声が再生された。
「澪。味噌汁、退院したら一緒に作り直そう」
前の人生には存在しなかった約束が、湯気の消えた朝を三分だけ先へ進めた。