三分遅れの父

風祭朱音が十二歳だった朝、父は七時四十二分のバスに乗り、交差点で死んだ。三十九歳になった朱音は、国営の過去修正AI〈折返し〉に申請した。変更できるのは一生に一度、百八十秒以内の出来事だけ。彼女は父の目覚ましを三分遅らせた。

光が消えると、実家の食卓に白髪の父がいた。母と口げんかしながら、焦げた鮭を食べている。朱音は箸を落とし、父の肩に触れた。温かかった。

だが自宅へ戻ると、娘の部屋は物置になっていた。端末に娘の名前を入れても、該当者なしと表示された。夫へ電話すると、知らない女からの迷惑電話として切られた。改変前から持っていた端末の隔離領域にだけ、娘の動画が残っていた。運動会で転び、泣きながら走り切る姿。父を救った世界では、その子を知る人間は朱音しかいない。

パン屋のあった角へ行くと、そこは月極駐車場だった。偶然、夫になるはずだった男が通りかかった。彼は別の女と幼い子の手を引き、朱音へ会釈した。幸福そうだった。朱音は声をかけられず、存在しない娘の動画を胸に抱いた。父の死後、母が始めた小さなパン屋で、朱音は夫と出会った。父が生きた世界では店は開かれず、二人はすれ違いもしなかったのだ。

〈折返し〉は日没までなら変更を取り消せると告げた。朱音は実家へ戻り、事情を話した。父は長く黙り、食卓の向かいにある空席を見た。朱音が動画を見せると、父は転んだ娘へ画面越しに「立て、あと少し」と声をかけた。もちろん届かない。それでも娘は映像の中で立ち上がり、父は自分が応援したからだという顔で笑った。

「その子は、よく笑うのか」

「泣く方が多いよ。私に似て」

「なら、会いたかったな」

父は朱音の端末に短い音声を残した。日没直前、朱音は取消を押した。

次の瞬間、父の遺影が棚に戻り、娘が居間から顔を出した。

「お母さん、誰の声?」

端末から、存在しなかった祖父の声が流れた。

――三分遅れたおかげで、おまえが来た。会えなくても、うれしい。

朱音は娘を抱きしめた。父を二度失った胸の中で、三分だけ生きた父が、確かに孫を祝っていた。