三十一日の次
高辻美冬が時計店「暦屋」に入ったのは、五月三十一日の午後十一時四十分だった。
古い自動巻き腕時計を受け取るためである。細い銀のケースに小さな日付窓があり、修理前は数字が三十一で固まっていた。祖母のものでも、恋人にもらったものでもない。先週、店先で見つけて、自分の最初の機械式時計として取り置いた品だった。
美冬の鞄には、装丁会社への応募書類が入っている。締切は六月一日午前零時。三年間、企業広告ばかり作りながら、いつか本の仕事をしたいと言い続けた。だが作品集を開けば、足りない頁ばかり見つかった。応募しなければ落ちない。そう考えて、時計を受け取ったら帰るつもりでいた。
今の職場で本に近い案件へ手を挙げても、「経験がない」と外された。経験を得るための場所へ、経験がないから行けない。その輪を、自分でも三年守ってきた。
店主は焦げ茶の作業布から時計を取り出し、竜頭をゆっくり回した。長針が文字盤を二周する。十一時五十九分を越えた瞬間、日付窓の三十一が半分沈み、乾いた音とともに一へ替わった。
店主はそれを確かめると、針を現在時刻へ戻さなかった。代わりにカウンターの端末で会計を済ませ、保証書の購入日欄へ「六月一日」と書いた。まだ十五分以上早い。
「日送りの確認をしたので」
説明はそれだけだった。店主は時計を箱へ収めず、美冬の左手首に留めた。秒針は、零時へ向かって途切れず進んでいる。
美冬はスマートフォンを出した。作品集のファイル名には、〈仮〉が三つ残っていた。一つずつ消す時間はない。メールに添付し、応募先を入れ、本文の最後に自分の名前を打つ。
送信したのは午後十一時五十八分だった。
画面に「送信済み」と出たあと、美冬は腕を上げた。日付窓はまだ一を示している。正確ではないのに、直したくなかった。
店主が紙袋へ空箱だけを入れ、六月一日の保証書をその上に重ねた。
店を出る前、時計の中で小さく歯車が噛み合った。三十一日の次は、待っていなくても来た。