三十万食のレシピ

夕食の味噌汁を一口飲むなり、砥上原崇伸は箸を置いた。

「薄い。専業主婦なら飯くらい完璧に作れよ。誰のおかげで食えてると思ってるんだ」

鬼灯森瑛梨は、鍋の火を止めた。結婚して八年、同じ台詞を何度聞いたかは数えていない。

「明日の夜、少し話したいことがあるの」

「また家計の相談? 俺の給料以上は出ないんだから、節約で何とかしろ」

翌日、崇伸は取引先との新商品発表会へ出席した。全国のスーパーで販売される冷凍総菜シリーズで、初年度三十万食が見込まれている。壇上の開発責任者として呼ばれたのは瑛梨だった。

彼女は家事の合間に、匿名の料理サイトを十年続けていた。冷蔵庫の残り物で栄養を整えるレシピが評判になり、食品会社から正式な監修依頼を受けていたのだ。試作、栄養計算、契約交渉まで、崇伸が飲み会で遅くなる夜に一人で進めていた。

役員が契約額を読み上げる。監修料と売上歩合を合わせれば、瑛梨の初年度収入は崇伸の年収の三倍を超える。

崇伸は席を立った。

「妻が趣味で作った料理です。家庭の味だから、権利は夫婦にあるでしょう」

法務担当は即座に否定した。

「著作権、商標、契約主体はすべて鬼灯森瑛梨氏です。婚姻前から運営していたサイトも本人の単独財産です」

発表後、瑛梨はホテルの個室へ崇伸を呼んだ。食卓には味噌汁ではなく、離婚届と財産分与案が置かれていた。

「冗談だろ。家事をしながら仕事なんて続かない。俺が生活費を止めたら困るのは君だ」

瑛梨は法人用口座の入金通知を見せた。契約一時金二千万円。すでに自分名義の部屋も借り、引っ越しは終えている。

「あなたのおかげで食べていたんじゃない。私が作った三十万食の一つを、あなたも毎晩食べていただけ」

崇伸が離婚届をつかもうとしたとき、食品会社の担当者から追加契約のメールが届いた。海外展開、全五年。

瑛梨が署名済みの離婚届を机へ滑らせ、担当者が契約成立を通知した瞬間、薄いと見下された味噌汁は世界へ売れ、崇伸の食卓から作り手だけが消えることが確定した。