三十秒で消えた産褥熱

「前世が食堂の衛生係? 医術の足しにもならんな」

王都産院の主任治癒師バルガスは、柊真が差し出した石鹸を鼻で笑った。

困っているのは一つだけだった。出産を終えた母親が、翌日から高熱を出す。治癒魔法は傷を閉じても、十人に四人が衰弱する。今朝も院長室には、六日間で七人という報告札が積まれていた。

柊真は呪文を唱えなかった。分娩室の入口に水桶を二つ置き、灰汁石鹸を細く切った。入室前に袖を上げ、指先、爪の間、手首まで泡立てる。砂時計の細い首から、砂が落ち切るまで三十秒。

「そんな暇があれば魔力を練れ」

バルガスが苛立つ横で、柊真は汚れた布に触れた者を出口へ戻した。手を洗わず次の寝台へ移ることだけを禁じた。たったそれだけだ。

最初の一時間で、三人の治癒師が規則を破った。柊真は怒鳴らず、そのたび砂時計を戻した。血に触れた手、扉の取っ手を握った手、前の寝台の毛布を直した手。泡が茶色く流れるのを見て、笑っていた看護係の顔が少しずつ変わった。柊真自身は八十四回洗い、指先が赤くなっても省かなかった。

初日は十二件の出産。二日目は九件。三日目の朝、院長セレネが自ら記録板を持ってきた。

「発熱は?」

看護係が札を数える。ひとつ、ふたつ――ではなく、ゼロ。

バルガスは偶然だと言った。そこで院長は隣棟の記録を並べた。従来どおりの隣棟は二十一人中八人が発熱。柊真の棟は二十七人中ゼロ。薬草も治癒師も同じ。違うのは入口の石鹸と三十秒だけだった。

ちょうどそこへ、昨日出産した若い母親が赤子を抱いて歩いてきた。頬に熱はなく、自分の足で食事を取りに来たのだ。

「この人が、私たちを守ったの?」

母親の問いに、バルガスは答えられなかった。柊真は石鹸を新しいものに替え、砂時計をひっくり返す。

院長は七枚の発熱札を机から払い落とし、空いた場所へ任命書を置いた。

「本日より全棟をあなたの手順に統一します。柊真殿、王都産院の衛生監督官を引き受けてください」

廊下にいた治癒師たちが、一斉に袖をまくった。