三回目の呼び出し音

苫米地絹枝は、夫の亘が死んでから、毎朝七時に死者回線へ電話した。

「今日は洗濯物、外でいいかしら」

「午後から降るぞ」

「自治会長を引き受けるべき?」

「断れ。おまえは人の頼みを背負いすぎる」

生前と同じ、少しぶっきらぼうな声だった。死者は未来を知らない。ただ、生きていたときの性格と記憶のまま、こちらの話を聞いてくれる。絹枝にはそれで十分だった。

やがて質問は細かくなった。味噌はどちらを買うか。庭木を切るか。孫へいくら包むか。亘の答えを聞いてからでなければ、玄関の靴さえ選べなくなった。

考えてみれば、生前もそうだった。勤めを辞める時期も、息子を下宿へ出すことも、旅行先も、最後は亘に決めさせた。意見が合わなければ文句を言えたし、失敗すれば「あなただって賛成した」と責められた。夫婦とはそういうものだと思っていた。

ある朝、絹枝は駅前の団地へ移る相談をした。古い家は広すぎ、膝も痛む。だが亘はこの家を好んでいた。

「売るな」

即答だった。

絹枝はほっとした。自分で決めずに済んだ、と受話器を置きかけたとき、亘が言った。

「いや、待て。今のは生きてた俺の答えだ」

「同じじゃないの?」

「違う。俺はもう、その階段を上らない。雨漏りの桶も替えない。残される方の都合を考えずに、好きだった家を守れと言うのは卑怯だ」

絹枝は黙った。

「絹、おまえは俺に相談してるんじゃない。決めた責任を俺に持たせてる」

通話はそこで切れた。死者側から切られたのは初めてだった。

翌日、絹枝は電話をかけず、不動産屋へ行った。団地の五階は眺めがよく、エレベーターもあった。帰りに、亘が「派手すぎる」と嫌った朱色のコートを買った。

引っ越しの朝、電話機を箱へ入れる前に一度だけ受話器を取った。呼び出し音が一回、二回。

三回目が鳴る前に、絹枝は切った。

新居の最初の夜は、冷蔵庫の音ばかり大きく、何を食べても落ち着かなかった。それでも翌朝、同じ階の老女に誘われ、近所の喫茶店へ行く約束をした。亘なら知らない人について行くなと言っただろう。

窓の外は曇っていた。傘を持つかどうか、空を見て自分で決めた。