三度目の呼び声
礼拝堂の床には、討ち取った魔獣より多くの血が流れていた。祭壇の前でアフネは四つん這いになり、肩甲骨の下から濡れた毛を押し出している。歯はもう、祈りの言葉を噛み砕ける形ではなかった。
「呼び戻せるのは三度だけだ」
老祭司は銀の鉢をセディルへ渡した。水面にはアフネの顔ではなく、黒い狼の頭が映っている。
「名を呼べ。だが名は代価を取る。一度呼ぶごとに、おまえ自身の名から一つ、意味が消える」
意味が消える、という説明をセディルは理解できなかった。ただ、アフネが祭壇の脚を噛み折ったので、鉢へ口を寄せた。
「アフネ」
水面が震え、彼女の右腕から毛が引いた。同時に、セディルは母が自分を名づけた夜を忘れた。覚えているのは、温かな腕の中にいたことだけで、呼ばれた音がない。
二度目を告げると、アフネの顎が人の形へ戻った。セディルの腰の認識札から最初の一文字が剥がれ、床へ落ちる前に灰になった。壁に刻んだ出陣名簿からも同じ文字が消え、彼が署名したはずの報告書は空欄になった。祭司が彼を見て眉を寄せた。隅で見守る兵たちも、つい先ほどまで共に戦っていた男から、気まずそうに距離を取った。誰も、彼の剣に刻まれた傷の由来を覚えていなかった。
「おまえは……誰だったか」
アフネはまだ尾を打ちつけていた。瞳の奥で獣が爪を立てている。三度目が要る。
セディルは彼女と初めて組んだ日のことを思い出した。崖から落ちかけた自分の手首を、アフネが笑いながらつかんだ。名を呼び合い、それで仲間になった。
その記憶ごと鉢へ落とすように、彼は三度目を告げた。
「アフネ」
狼の像が水中で溺れた。アフネは裸の肩を震わせ、咳き込みながら人の息を吐いた。
「セディル……?」
彼は答えようとした。だが、その音が自分を指すとは思えない。祭司の目にも、救われたアフネの目にも、彼を知る色はなかった。
銀の鉢に映っていたのは、輪郭の薄い一人の男だった。胸の認識札は真っ白で、唇だけが、持ち主のない名を三度なぞっていた。