三度目の返事
県道七十二号の旧樫尾トンネルには、保守員だけが共有する一行の注意書きがある。
《坑内で自分の名を三度呼ばれても、三度目には返事をしてはいけない》
二十七歳の榛葉遼司は、その文を点検アプリで確認し、スマートフォンの録音を始めた。
「五月十四日、午前十時二分。照明断線の現地確認。単独入坑」
入口の鎖は錆びていたが、南京錠は外されていた。誰かが先に入った形跡はない。遼司はケーブルの番号を読み上げながら、百メートルごとに写真を撮った。
百八十メートル地点で、背後から声がした。
「榛葉」
父親の声だった。十年前に死んだ父は、遼司を名字で呼んだことがない。彼は振り向かず、記録だけ続けた。
二百四十メートル地点。
「榛葉遼司」
今度は職場の主任の声だった。無線は圏外表示のまま。遼司は喉を鳴らしたが、返事はしなかった。
出口側の遮光壁が見えたころ、インカムに短いノイズが走った。
「榛葉君、聞こえるか。返事しろ」
主任の声だった。あまりに自然で、注意書きを思い出すより早く、遼司は言った。
「はい」
直後、録音画面の経過時間が二秒だけ巻き戻った。
外では主任が軽トラックにもたれていた。「無線なんか入れてないぞ」と言い、遼司の顔を見て眉を寄せた。それ以上は何も起きなかった。入坑名簿には遼司の署名が二つあり、片方だけ筆圧が紙の裏から表へ盛り上がり、署名時刻は翌朝五時四十一分だった。録音を再生しても、三度の呼び声は入っておらず、遼司の「はい」だけが暗い坑内に浮いていた。
翌朝、彼はいつものように事務所の入退室端末へ社員証をかざした。
青いランプの代わりに、黄色い確認画面が出た。
《榛葉遼司さんは、午前五時四十一分に入室済みです》
まだ誰も来ていないはずの執務室で、キーボードを打つ音がした。
端末は続けて表示した。
《同一名の入室を検知しました。二人目として登録しますか》
「いいえ」と「はい」のボタンのうち、「はい」だけが、内側から三度押されたようにへこんでいた。