三百皿目の湯気
午後六時四十分、ホテルの宴会厨房に「乾杯が十五分早まる」と無線が入った。南宴会場へ出す南瓜のポタージュは三百食。石渡千景が最初のバンケットカートを開けると、上段の器からは湯気が立ち、下段は白い磁器のままだった。
「スチコンの温度を上げよう」
若い調理人が操作盤へ手を伸ばした。千景は止め、上段と下段の二皿に温度計を差した。芯温は十一度も違う。機械の故障なら全段がぬるいはずだった。
彼女は庫内をのぞき、深い容器が隙間なく差し込まれているのを見た。急いで一度に入れたため、蒸気の通り道が塞がっていたのだ。温度だけを上げれば、上段は煮詰まり、下段はまだ冷たい。しかも皮膜が張れば、三百皿すべてを漉し直すことになる。
宴会係は背後で秒を読み、配膳スタッフは空のカートを押したまま待っていた。千景は焦げ茶色のテープを取り、先に温まった容器へ一本、再加熱する容器へ二本貼った。途中で人が入れ替わっても、どれを動かすか迷わないためだった。三百食の現場では、一人の記憶より、誰にでも見える印の方が速い。
千景は容器を半数ずつに分け、棚を一段空けて交互に差した。先に温まっている上段分は火を止め、ふたをして待機させる。下段分だけを短い時間で再加熱し、途中で前後を入れ替えた。配膳係には、カートへ積むのを出発直前まで待つよう頼んだ。
「全部を急がせないんですか」
「急ぐものと、待たせるものを分けるの」
再加熱の途中、若い調理人が一番下の皿だけを触って安心しかけた。千景は中央、扉側、奥側の三点を選ばせた。機械の表示が同じでも、料理が同じとは限らない。三人で数字を読み上げ、記録表に棚の空け方まで書き込んだ。
十二分後、抜き取った三皿の数字が揃った。宴会場の扉が開き、三百皿目にも一皿目と同じ細い湯気が立った。
空になったスチコンへ洗浄ノズルを向けたところで、別の無線が鳴った。
「東宴会場、二十時半。追加六十食です」
千景は空けたばかりの棚を見上げ、次の容器を取りに歩き出した。