上り列車は手を振らない
三戸部遥香が東京の大学に合格してから、鷺沢廉太は毎日、駅までの近道を探した。
川沿いを通れば二分短い。神社裏の坂は雪の日に危ない。踏切を避けるなら商店街を抜ける。四月から使うのは遥香一人なのに、廉太は地図へ赤い線を何本も引いた。
「東京には地下鉄があるよ」
「知ってる」
「この地図、役に立たないよ」
「知ってる」
出発前夜、二人は無人駅の待合室にいた。廉太は卒業後、父の林檎園で働く。遥香は報道を学び、いつか地方の声を伝える記者になると言った。
壁の時刻表には、明朝六時十二分の上り列車がある。
廉太は赤線だらけの地図を折り畳み、遥香へ渡した。
「遠距離、やってみよう」
「うん」
「毎日電話する」
「うん」
「夏休みは帰ってくるだろ」
「廉太」
遥香は地図を膝へ置いた。
「別れよう」
外で除雪車が低く唸った。
「都会へ行ったら俺が邪魔になる?」
「逆。廉太は邪魔にならないようにするでしょう」
「何が悪い」
「来年買うはずだった剪定機のお金で、東京へ会いに来るつもりなの知ってる。私が寂しいと言ったら、仕事を休むつもりなのも」
「好きなら普通だろ」
「私は、その普通を数え始める。何回会いに来てくれたか。何を諦めてくれたか。帰るたび、この町に借金が増えるみたいになる」
廉太は長く黙り、窓へ息を吹きかけた。白く曇った硝子に、指で林檎を描く。
「俺は待てる」
「待っている廉太を、東京で安心材料にしたくない」
遥香は彼の林檎の横へ、小さな電車を描いた。
二人の絵は線路でつながらなかった。
翌朝、ホームには廉太がいた。
言葉は昨夜で使い切っていたので、「元気で」とも「またね」とも言わなかった。
列車が動き出しても、廉太は手を振らなかった。
遥香が頼んだのだ。振られたら、この町が追いかけてくる気がするから、と。
窓の外で彼は小さくなり、林檎畑の白い枝に紛れた。
東京へ着いて地図を開くと、裏に一行だけ書かれていた。
〈帰り道じゃなく、出ていく道として使ってください〉
遥香は泣きながら、知らない地下鉄の路線図を重ねた。
二人は嫌いになって別れたのではない。
互いの未来を、故郷へ戻る理由にしないために別れた。