下書き三行のまま

火曜の夜十時十四分、璃子は冷めた生春巻きを一本、箸でつまんだままスマートフォンを見ていた。

マッチングアプリには、新しいメッセージが一件届いている。

〈お仕事おつかれさまです。プロフィールの喫茶店、僕も気になってました〉

感じのいい文章だった。短すぎず、馴れ馴れしくもない。だからこそ、感じのいい返事をしなければならない気がした。

〈おつかれさまです! あのお店、プリンが〉

そこまで打って消す。まだ行ったことはない。プロフィールには「休日は喫茶店を探しています」と書いただけだ。

〈気になってるんです。おすすめありますか?〉

質問で返すのは面接みたいだと思って消す。

〈メッセージありがとうございます〉

今度は事務連絡に見えて、また消した。

テーブルにはスーパーのレシートが広がっていた。生春巻き二割引、ヨーグルト、洗剤。合計千三百八十六円。会社のチャットは未読十二件で、明日の会議資料には直す箇所が三つ残っている。今日一日、言葉を間違えないように働いたあとで、知らない誰かにまで正解の文章を出す余力はなかった。朝から返したメールの数さえ、もう思い出せなかった。

生春巻きの皮は乾いて、端が白くなっていた。璃子はそれを口に入れ、噛みながら三度目の下書きを眺めた。

相手は、今夜中の返事を求めているとは書いていない。返さなければ縁を逃す、という文字もどこにもない。そう思っても、画面の右上にある赤い「1」は、小さな締め切りのように見えた。

璃子は文章を全部消さず、下書きのままアプリを閉じた。代わりに目覚ましを七時へ合わせ、空になった容器を流しへ運ぶ。洗うのは明日の朝でもいいことにした。

ベッドへ入ってから、返事を考えないためにスマートフォンを伏せた。感じのいい人には、元気なときの自分で返したかった。今夜の自分が怠けているのではなく、もう言葉を使い切ったのだと思うことにした。

下書きは三行のまま残っていた。それで、今日は誰にも失礼ではなかった。